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カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

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仮説は頭のうしろ

前回の投稿に続くものがあるのですが、
私はセッションをするとき、自分の知識や仮説は頭の後のほうにおいて、今自分の目の前に存在している方を知ろうとします。この人はどういう人で、どんな状態でいるのか?

言い換えれば、例えば、「癌患者さんだから、こんなニーズがあるはず (ex.気づいていない悲しみや怒りに押しつぶされそうになってるのではないか?不安なのではないか?)この人の場合、どれにあてはんまるんだろう?」という風に見ない。

例えば、今は季節の変わり目だから、それを感じられる曲を選ぼう、というのは、セラピストのニーズや先入観が前に出ているやり方。今その人にとって必要な事は、季節の移り変わりを感じることでない場合が多々あるのだから。

では、仮説を頭の後においてクライアントと接している時の思考回路はどうなるのか?
例えば、「季節の移り変わりを感じることがクライアントのニーズやセッションの目的に見合うかもしれない」というのは、膨大なチョイスの一つに過ぎないと自覚する。もしかしたら、そのテーマが相手に意味のあることかもしれないし、全くの的外れであるかもしれない、五分五分だと分かっているべきである。だから、相手を一人の未知の人として、知ろうとする。自分の意識を宇宙までオープンにするくらいのつもりで。どれくらい沢山の仮説が立てられるか、というのもセラピストの度量だとおもう。それは、逢うのが5回目であっても100回目であっても同じ。そのときその時で、相手の立っている場所は違う。ただ、知識として癌と診断されているとか、前回のセッションではこういう事を共有した、というのは持っている。それは、他の情報と繋げ最終的なセッションの方向性や具体的な介入を決定する時の有益な材料となるが、決して短絡的に個別の情報だけで結論を導かない。

鬱を持っているから、何歳だから、どこどこ出身だから、-の仕事をしているから、~な家族構成だから: 
~だから~が必要かもしれない、
という一つの状態にたいしての仮説の数は膨大で頭の後ろに存在している。クライアントと実際接しクライアントを知っていく課程で、その多量の仮説の中から当てはまると思われるものを直感的に、あるいは理論的に選んでいく。(ここに、セラピストの主観とカウンタートランスファレンスが交錯してくる)。頭の後に蓄積されている仮説の量は知識と経験によって豊かになり、そのセラピストにしか出来ない介入をするリソースとなる。

型をクッキー生地にはめてその形にするように、「診断名」という型からクライアントのニーズを分類し、「癌だからこういうニーズ」という様に判断していくのではない。目の前の人と話しながら、持っているアルミニウムをクネクネ変形させてその人に見合った型を、その時その時作っていこう、という意識がセラピストにとってはとても必要だと思う。あるいは、型を作らない、という選択をすることも。
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by totoatsuko | 2007-10-26 06:21 | Comments(0)

自己満足セラピスト?

d0065558_1071610.jpgNY, Bostonにいた時は、その地の病院 (メモリアル スローン ケータリング キャンサー センター、NY フォウンドリング ホスピタル、ハーバード メディカルのホスピス部門)で、音楽療法士として人と関わっていた。 日々学びながら、日々人の心に触れながら、そして自分の心と向かい合いながら、少しでもそこにいる人たちのために自分を生かしたいと思いながら。

でも、日本人である自分は、日本のために何かしたい、というのは常々あって、東京に1年半前腰を落ち着けてからは、どんな場所・形があるのだろう、と探っていた。

先日 「音楽療法」なるもの、WSなどで話はきいた事があるけれど、いまいち何なのかよく分からない、というお医者さんや、心理士さんに、
そちらの病院で音楽療法を「チーム医療の一員として」音楽心理療法士(私)を入らせてもらえませんか?という話をした。オマケとして雇われているのでは決して出来ない音楽療法士としての仕事がしたいから。

私は日本の病棟・医療環境については無知だし、そもそも病院という現場を離れて時間が経っているので、その分私の経験と現場のギャップは開いているだろうから、まず現場を見させていただく機会を持たせていただいて、そこから、私が持っている引き出しの何が使えるか一緒に考えてもらって、病院としてのサービスの質を上げることに貢献できたら、という気持ちでした。

質問された中の一つに、「音楽を捨てれますか?」(=音楽を使わず、患者さんやその家族と関係を作れますか?)というのがあって、音楽を使わないと、音楽療法士としてのアイデンティティーを確立できないと自任していると思われているのだろうか?と思い、「勿論捨てられます。」と答えました。

音楽療法士は、音楽をセッションの目的に応じて、沢山存在する音楽の要素(歌、テンポ、ダイナミックス、音程、等々)を意図的に選び、使うことが出来るように訓練された人。意味があるから音楽を使うのであって、何か演奏しなくては療法士として機能していないわけではありません。 例えば、静寂のなかにも音は存在し、それを気づかせてあげるのも音楽療法士だからことできる事と言えます。そして、基本は、患者さんのニーズに専門家として対応するのがわたし達の役目。

例えば、とっても優秀な腕のよい外科医が、切らなくてもいい腫瘍を切りたがるなんてバカバカしい話だ、というのと同じで、音楽療法士が自分のやりたい音楽を患者に押し付けているのはあまりにもレベルの低い話です。私は音楽を使って深層心理を扱い、サイコセラピーをする訓練を受けましたが、全ての人がサイコセラピーを受けるほうがよいと思っているのではなく、目の前の人にとって有益であると仮説を立て、それに相手も合意すれば、音楽心理療法ー音楽やアートをつかったサイコセラピーも出来ます、というスタンス。

お医者さんや臨床心理士さんの不安ー私がやりたいことを自己満足的にやってしまって、かきみだされるのではないかーというのはとても理解できるのですが、それがまず一番の憂いとして出てくる、というのは、自己満足的なセッションをやっているセラピストが過去に目についていたからなのだろうか、と思ったのでした。
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by totoatsuko | 2007-10-25 10:02 | Comments(5)

削ぎおとす

d0065558_934916.jpgモノを増やさない、というのは相当努力がいる。ちょっとした努力では、宣伝上手な企業の戦略に簡単に載せられてしまい、モノを買ってしまいそうになる。食べ物も、美味しそうなものが並んでいれば、自分のお腹との対話を忘れて、どんどん体内に取り込んで脂肪として蓄えてしまう。

カッコイイ服をまとうとか、便利な小物があるとか美味しいものを食べるのって、楽しいのだもの!しょうがない。

また、人から色々貰ったりもする。
それが自分やその人の関係にとってシグニチャーなものならまだしも、そういう風習だからあげる、とか、心がこもってない品物だったら余計タンスの奥の肥やしになる。

モノを獲得した瞬間に感じる喜びの宴が過ぎた後後悔する。
お金を使って脂肪を蓄えて自分の身にしたものを、エステやダイエットプログラムにそれ以上のお金をかけて削ぎ落とそうとする。モノが増えて、自分のスペースを占領されて、ゴミゴミした中で過ごさなくてはならなくなる。自分な何を「所有」しているのか全部を把握できなくなって、溢れるものに逆に所有されてしまう。

危機管理という視点から、多少の蓄えは必要だと思うけれど、生きていくのにそんなに沢山のモノは必要ない。古くなったもの、壊れたものは修理して、そのモノとの関係を大事に作っていけば、もっともっと心豊かに限られたモノと一緒に暮せる。それだけ大事に使ったものが修復不可能になってしまった時は悲しいが、その分、次の代替品を買うときは慎重になるし、大事に使う。(もっとも、電子機器などは、買い換えた方が安い場合が多いけれど)

ウインドウショッピングをしていると、ステキだなぁ~、って思ったり、あ、これあると便利だなぁ~、と思うことがあるのですが、立ち止まって考えます。私はほんとうにこの品物と一緒に暮したいか?って。いいなぁ~と盛り上がっている心は、ついつい立ち止まって深呼吸するのを忘れてしまうのですけれど、見たその日には購入しない、一晩寝ても忘れられない出会いかどうか吟味する、というのを原則にして、すっきりした暮らしをしたいとおもっています。
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by totoatsuko | 2007-10-20 15:29 | Comments(2)

ワークショップ カスタムメイド

明日(10/20)は品川区教育相談事例研修の講師として招かれています。

税金から報酬をもらうのは2度目。日本では、音楽療法といったら一部の人以外は胡散臭いもの、と捉えていらっしゃるようなので、ちょっと不思議なような嬉しい気分です。
音楽療法に、公的資金を投入してもらえる → 公的組織に認められてる?
そうなるほど、日本の音楽療法が発展していけばいいのですが。

区の教育相談員の方に音楽療法を紹介する事がWS(ワークショップ)のテーマとしたので、プチ体験も混ぜ合わせたものにしようと思っています。音楽療法が、ただ、表面的に気分を落ち着かせるとか、楽しくなる、という効果だけではなく、深層心理のどろどろしたところまで、魂まで作用する力がある、ことを感じ取ってもらえれば、と思うのですが、きっと2時間のセッション1回では、難しいかな。でも、少しでも自分の手と体と心を使って体験していただければ、本で読むより、人づてで聞くより、身の肥やしになると思います。

より多くの人に、音楽療法の深さや可能性を知ってもらいたい、と願っているので、音楽療法に興味がある方、WS企画希望の方は、メールにてお問い合わせくださいね。

参加者の知りたい・学びたい内容にそってコンテンツをカスタムメイドしています。
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by totoatsuko | 2007-10-19 09:42 | Comments(0)

女性の特権

引き続き 園田 天天光さんがおっしゃった言葉。
「子供が産めるというのは女性の特権」(最も、妊娠したくても出来ない女性もいらっしゃるので、「女性」の特権というのは御幣がありますが。)

私がもし子供を産んでいなくて自分の生活と仕事を目一杯楽しんでいたり、あるいは産みたくても産めなかったりしていたら、すとん、と自分の中に入ってこなかっただろうな、と思った一言。

「特権」は使わなきゃ損、くらいの勢いで受け止められそうだけど、
そうではない。「産む」「産まない」を選べる、という意味で、その「特権」が特権となりうると思う。

世の中には色んな特権がある。
社長の特権。警察官の特権。ガードマンの特権。親の特権。子供の特権。特定の会社の・その社員の特権。女性の特権、男性の特権。

でも、特権を使ったからっていいことばかりじゃない。
特権を行使した者には、それに対する責任が伴う。それを自負している人はどのくらいいるんだろう?もしかしたら、特権を持たないほうが楽かもしれない。

ニュースを見ていると、特権の乱用者がなんて多いんだろう、と思うのでした。
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by totoatsuko | 2007-10-18 15:12 | Comments(0)

お金の配分

いつも通る交差点の信号機が最新のものに変わった。いままでの物でも何ら支障はなかったのだけど、どういう理由でこれに大金が使われたのだろう?

もっと?と思うのは、地下鉄のホームに事故防止という理由のドアみたいなのがどんどん増えていっていること。ドアは地下鉄車両だけで十分だ。もちろん、あの壁があれば転落や飛び込み自殺は防げるだろうけれど。不注意で落ちる人を守るために何億とお金をかけるよりは階段の上り下りが大変な人(お年寄り、乳幼児、乳母車、妊婦さん、体に障害のある人)のためにエレベーターを作ってくれるほうが、優しく有益な改造なのに、と思う。

線路に飛びこんでしまう人のためには、ホームの柵を作るより、メンタルヘルスサービスを身近に受けられる法整備や補助金を出してくれた方がいい。

障害がある人への補助金や特権も、彼らの自立を促すため、という理由で減らされたりしているけれど、それを決めた人たちで、実際障害がある人と日常的にかかわりを持っている人って、どの位いるんだろう?この人たちのニーズや切実な思いを、人づてではなく自分の耳で聞いた上で作った法案なのだろうか?

女性で初めて衆議院議員になった 園田 天天光さんが、「政治は難しくない。もっと生活に密接しているもの」とおっしゃったけれど、多くの「介護も、子育ても、家事も、掃除も、料理もしたことがない人種」で構成されている政界に、生活者のニーズを理解して欲しい、というのは無謀な気がします。他の分野(例えば、外交とか)ではとても頼りがいがある方もいらっしゃるのでしょうが。。。
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by totoatsuko | 2007-10-18 14:50 | Comments(0)

ワークショップ@青山

11月9日に東京 青山にて、International Mental Health Professional Japan主催の勉強会でワークショップを行います。GIMのテクニックをつかった物をちょっと体験していただき、後は基本的に音楽療法って何?何ができるの?という質疑応答になると思います。英語です。申込は、上のサイトから。

Open to everyone ですが、基本的に専門家向けです。
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by totoatsuko | 2007-10-13 21:45 | Comments(0)

存在否定

子供を叱る時、あるいは相手の非を責める時、絶対にすべきではない事。
相手の存在否定。人格否定。

もう!だから君は 何をやっても ダメなんだ。
こんな子は、ウチにいりません。そんな事すると(あなたを) 捨ててしまう よ。
こんな子は ウチの子ではありません/社会人として失格 だ。
こんなんじゃぁ、誰にも 好かれないよ・認められないよ。

これを言ってしまったら、相手は深く傷つくだけでなく、その行動をやらなくなる理由が、あいてが怖いからであって、相手が嫌がっているからやめよう、という気持ち、あるいはそは規範なのだから従うものだ、と理解するに至らない。

「自分にとって」相手の望ましくない行動、あるいはやって欲しくない行動を止めさせたいのなら、その行為自体がいけないことだ、と教えればいい。恐怖感をあおって、相手の心を弄ぶべきではない。上記のような人格全体、存在のあり方自体まで否定するということは、相手の心の深くまでナイフで突き刺すことになる。

叱るときに相手を脅すべきではない。相手との関係を大事にしたいなら、なおさらのことだ。恐怖政治を会社や家庭で敷く、ということは、統制された人間は、主君の顔色を見ながら行動する。決して主君には心を打ち解かさないだろう。

そんな事はない、どんな叱り方をしても、罵倒しても自分の子供は自分になついてる、と思っているなら大きな勘違いだ。親に虐待された子供ですらその親になつく、どんなにひどいことをされていても。それは、愛されたいが為に自分の存在を認めてもらいたいが為に必死のサバイバルを行なっているだけであって、将来、もう決定的に親を信用出来なくなる。

その言動をやめて欲しいなら、
「私は・この家のルールは、この会社の規範では/ その行動はやめてください・やめなさい」
と伝えればよいのだ。まぁ、そんな事を言っても子供は理屈じゃないからなかなかいう事を聞かない。その時は、ウチの子ではありません、などと人格全体を否定したり、恐怖を与えるのではなく、幼児の場合、 隣の部屋にでも連れて行って、泣きたいだけ泣きなさい、落ち着いたら戻っていらっしゃい、と言えばいい。なだめすかしたりする必要はない。もう少し、言葉でコミュニケーションできる年齢なら、話を聞いてやり、こっちの言い分も聞いてもらい、折り合いがつくところを見つけよう。

とにかく、悪いのは・やめて欲しいのは、その言動であって、その人の存在自体ではないこと。
その言動をやめて欲しいのは、「叱っているあなた」であって、世の中全員が悪いとみなしているのではないこと。叱る責任を社会や国に転換し自分がその代理人だ、というような責任逃れもすべきではない。(人と場合によっては、その言動は褒められるに値するかもしれないのだ)

大事なのは、「わたしとあなたの関係では、あなたにその言動をやめて欲しい、と思っている」という事を伝えることである。
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by totoatsuko | 2007-10-12 16:38 | Comments(0)

マニアックなスタイルと共生

d0065558_93823100.jpg何か人が集まって、そこに食べる物が出てくる場合、マクロビオティックのスタイルを貫こうとするのは、気を使う。

自分や自分の子供に、「これすっごく美味しいから、わざわざ買いにいってきたの」と食べるのを勧めてくれる人に「すいません、~(そういうもの)は与えないようにしているんです。」と言う時は、わざわざ気持ちを使ってくれた人に対して本当に申し訳ない気持ちで一杯。

私がマクロビオティックを学ぶ前に、マクロビオティックを日常に取り入れている人と会おう、という事になったとき「ベジタリアンのメニューがあるレストラン希望です」と言われて、なんかめんどくさいなぁ、いいじゃないたまにはお肉やお魚食べたって、って心の中で反応したのを覚えている。だから、マクロビをやってない人のマクロビを慣行している人に対する反応とか気持ちを推測するのは、逆の立場に立っている今でも難しくない。

「マクロビ取り入れてます。」というのが単なる食事スタイルとしか捉えることが出来なかったけど、今では分かる。「こういう食事を求めています」という言葉は、彼の生き方・人生に対する姿勢を暗喩していたのだということを。いいじゃない、ちょっとくらいお肉食べても、と言うのは、その人の生にたいする姿勢を軽んじる反応にも取れる、という事に気付く。

マクロビオティックは「食で体を整えるため」の学問だから、ある意味マニアックで、現代の一般家庭の食事スタイルからはかけ離れていると私は思う。砂糖、肉魚卵牛乳製品は摂らない、なんて言っていたら、大方のレストランのメニューや食卓に並ぶものから選べる食べ物がなくなってしまう。あたりまえだ、繰り返しになるけれど、マクロビオティックの根本的な考えは「食べる物で体を整える」「食べ方で病気を治す」というものだから。

だから、そのスタイルを毎日好んでやりたいと思えば、そうすればやればいいし、
マクロビオティックの考え方に関係なく食事をしても、何ら咎められるわけでもない。

人と違う考え方や行動をするのは、本当にエネルギーがいる、特に日本では。
同じだったら起こらないテンションや摩擦が発生するから。
その「場の空気」を濁さないために、「その時くらい」マクロビ放棄すればいいじゃない、というのが多くの人の反応。そういう場への適応の仕方が自分にしっくり来るならそうすればいいし、「場」のために自分の哲学を曲げたくないと思えば、堂々と自分のスタイルを貫けばいい。

テンションが発生すれば肌は感じる。それは、子供の頃私は心と体をさんざん痛めながら体感した。今でこそ、自分を傷つけない術を知っているから大抵の反応なら自らの血を流さずにすんでいるが。

日本はデフォルト、というか初期設定、というか自分自身と相手に対する期待が「みんなと同じである」という状態だから、人と違うことをしたとき・誰かが自分と違う考え方を提示したとき、どっちが正しい、いい/わるい、という視点で批評しがち。でも、もっと違う視点でビックピクチャーを捉えられる人が増えるといいな、と思う。いい・わるい、ではなくて、個々人のスタイルなんだと。違うからといって、その「場」にテンションを生じさせる必要はなく、むしろ話のネタくらいになるといいのだけれど、とこのロングウィークエンドの体験を通して思ったのでした。
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by totoatsuko | 2007-10-09 07:13 | 食について | Comments(3)

ノーフォルト

d0065558_9373195.jpg現役産婦人科医が書いた若い産婦人科医が主人公の小説ノーフォルトを読んだ。フィクションだが、現場の医師たちの迷いや苦悩、患者さんやその治療に対する熱い思いなどが、とてもリアルに描かれている。

小説とはいえ、必死に患者さんと真摯に接し、日々新しい知識と腕を上げるため邁進しているお医者さんに出会え、なんだかとても嬉しかった。反面、医師としての哲学を築くまえに現場の最前線に出た場合、患者と接しかたや治療中何かが起こったとき、迷いや苦悩が生じるか、自分の精神がばっさりと斧で切りつけられるような傷を負ってしまう危険性を改めて感じた。


医療関係者の心のケアをする人の存在の必要性も強く感じた。
一般の患者さんとその家族の心のケアをするための整備すら日本は出来ていないから、そんな必然性唱えたところで、誰も賛成しないと思うけれど。それは、もしかしたら心に痛みを抱えている医療関係者の無意識のうちのdenial(否定)/avoidance(逃避)なのかもしれない。 ちょっとでもつっつかれると痛みが流出してしまうくらい心が傷ついているから、あえて大丈夫だといいはる。

その小説に登場する医師たちも言っていたし、私が知っている医師が言っていた事を思い出した、今の医療訴訟のありかたのままでは、医者が誇りと自信をもって、患者さんのために最善をつくせなくなる、という旨を。

人が死んだり後遺症が残っておいて、医者だって人間だからミスや見落とし手術の出来のよしあしがある、というのは言い訳にしかきこえないかもしれない。しかし、人間は完璧じゃない、これまで最高権威の名札の一つであるかのように患者があがめていた状態もみなおす必要がある。新しい医療を全て即座に自分のものにできないからといって、その医師こじんの問題ではない。それに、担当医師だって、誰ひとりとして、残念な結果を望んで患者さんと接しているわけではないのだ。残された家族の気持ちと比較してもしょうがないことだが、医師だって自分の患者さんが命を失う、というのは悲しいことだし、場合によってはPTSDを引き起こす。

勿論、患者さんを対等の人間としてみなしていないような、横柄な接しかたをする医師・治療計画を立てる医師もいるが、その人を責めるよりは、どうしてそういう医師が生まれたのか、医師として生存できるのか考える必要がある。医師になるための教育・先輩医師の背中・医療界の慣習・患者の態度。

小説には、医療訴訟の現状について著者である現役の医師の思いが述べられているだけでなく、医師の労働環境の悪さにも触れている。よく書けた医療小説です。
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by totoatsuko | 2007-10-05 23:13 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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