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入院拒否

もう九月の末というのに、暑いですね。(今日の予想東京最高気温31度)
日本の四季はどこにいってしまうのでしょう。(せめて気持ちだけ涼しく、水族館の写真)
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先ほど、妊婦さんの救急入院拒否の回数・件数が増加している、というニュースを見た。
表層では受け入れ態勢を作っていない病院が悪い、という反応が多いけれど、病院を批判するくらいなら、そういう病院と地域との関係をつくってしまった行政や自治体、利用者のありかたも見直すべきだと思う。

妊婦さんの死亡や出産の過程で子供に障害が残ってしまい、それを全部担当した医者の責任だ、と言われ、犯罪者にされる可能性も増えた現在、わざわざそういうリスクのある専門(産婦人科医)になろうというインセンティブを持たないのはしょうがないだろう。

病院だって、訴えられるくらいなら、初めから自分達では手に負えなそうな患者さんを拒否してしまうのは、理屈としては筋が通っていると思う。自分の能力以上のものを求められた時、はっきりと「私には出来ない」というのは見栄とかプライド、あるいは「私が受け入れなかったら、この患者さんはどうなってしまうのだろう?」という心配から言いにくいことかもしれないが、中途半端なケアをする事も、とても無責任な話なのだ。

もしかしたら、お医者さんは権威として服従する対象・神様みたいな存在であったと同時に、「治療してくれて当たり前」という患者の態度・期待が、今までの医療体質をつくるのに一役かっていたのではないか。でも、医者も人間である。医療にも限界がある。

だから、ものすごい権威である存在を諦めて、「受け入れられません」と言えるようになったのは、進歩だと思う。医者だから、病院だから、患者さんから頼まれれば何が何でもケアしなくては、その存在をプライドを守れない、というのから、自分が「出来ない」部分を認め、相手に伝えることが出来ているから。

問題は、その先。では自分が直接ケアできないのだったら、確実に出来る人を紹介出来なくては。音楽療法士の世界でも同じ。私の専門外の人がコンタクトをとってきたら、よく話を聞いて、信頼できる人を紹介する、あるいは探す手伝いをする。ケアする専門家・施設だって、なんでも叶えてくれる神様ではない。

緊急入院が必要な人、その家族にとっては一刻も早く治療をしてもらいたい、拝むような気持ちで一杯である。お医者さんや病院は次々とそういう人から連絡を受けているから、その切実な気持ちをいちいち察して同情してゆっくり時間を費やすわけにはいかないのだろうが。日本の医療、お互いを責め合うのではなく、みんなで「変わろう」といううねりを作っていかなくてはならないのではないでしょうか。
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by totoatsuko | 2007-09-28 10:00 | Comments(1)

マクロビオティックは食事法だけじゃない

d0065558_17514725.jpgこれから、定期的にマクロビオティックのクラスをとっていくので、シロウトがどのようにマクロビオティックを理解していくか、自分の中に織り込んでいくか、その変化をその時々に綴って生きたいと思います。今日はレポート第2弾。

自分の持っているバランスを計るちから、生きる力を最大限引き伸ばす

マクロビオティックのクラスに出て、先生方の話されることをきいていると、マクロビオティックは多くある食事法の一つ、というだけではないのだということに気づいた。雑誌や本では、誰にでも分かりやすく、とっつきやすく「マクロビオティック」を調理して読者に提供している。だから私は、マクロビオティックって、要は主食は玄米、白砂糖や動物性のもの(牛乳・卵・肉・魚 など)をなるべく取らないメニューなのでしょう、という位の理解だった。

でも、気づいたのは、いかに自然と調和しながら生きるか、いかに自分の力の源を活性化させながら生きるか、どうしたら世界中の人が平和になれるか、という生きることに対する哲学みたいなのを、たまたま食事・料理法という手段を通して人間を啓蒙しているものだ、という事。だから、ただ玄米を食べて、ベジタリアンになったからといって、マクロビオティックという分野が持つ本質的なメッセージを体得しているとはいえないだろう。食料という資源を、お水や土をどういう風に大切に使うしか。人間というエネルギー体と自然界のエネルギーとどう折り合っていくか。西洋的な宗教と違って、その本質を理解していない人を排除しない。むしろ仏教的な、私の哲学は~ で、共感する人は寄っていらっしゃい、ルールを全て守らなくちゃいけない、というルールはないですよ、というのがいいな、と思う。

私の個人としての生きかた、音楽療法士としての哲学に共通するものがたくさんあることに気づいた。自分の持っているバランスを取るちから、生きる力を最大限引き伸ばす・そのために一粒のお米から大事に食べよう。

マクロビオティックには、「陰」と「陽」という言葉が頻繁に出てくる。
おおよそ、上に伸びるもの・広がるもの・土の上にできるものが陰性な作物で、例えば茄子・レタス・ねぎ。土な中にできるもの、内側にしまっているものがおおよそ陽性で、例えば人参・ゴボウ・かぼちゃ。そして、実の外側はより陰性に近く、中心は陽性。

大事なのは、陰性のものを食べてはいけない、と言っているのではない、という事。雑誌では、なんとなく陰性のものを採るのは良くない、という側面ばっかり強調されているけれど、それは、その人・その人の体調によるのだ。あまりに体が火照っていたら、陰性のものを大目に取り入れよう、冷え性なら陽性のものを採って、体の細胞から体を暖めよう、と言っている。
これは、shadow aspect/自分の影(闇の部分)を否定することなく、自分の好きな自分自身の側面と同じ位、その存在を大事にしていく私のサイコセラピー(音楽心理療法・音楽療法)のプロセス・哲学と共通していると思った。
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by totoatsuko | 2007-09-21 13:35 | 食について | Comments(2)

Lets' walk! - not Don't run

d0065558_9191441.jpg子供への音楽療法のトレーニングを受けていたとき、子供にやってほしくない行動があるときの言葉選びを教えられた。

例えば
「走らないで」「走っちゃダメ」ではなく、「歩こうよ。」という。
何故なら、走り回っている・あるいは走りだそうとしている子供には、前者の言葉かけだと、文頭の「走る」という言葉しか頭にまず入ってこない。だから、走ってほしくないときは、その単語を使わず他のオプションを提示するほうが良い。「~してはダメ」という子供の意思に否定的なコメントをしなくてもいいし。

他にもいろいろあるだろう。
めそめそ ギャーギャー 泣いているとき、「何で泣くの?泣かないの!」と子供のぐるぐるまわってはまってしまっているエネルギーを、こちらが吸い取って怒りをぶつけ返しても、事態は変わらない。それよりは、エネルギーの出口を与えたり、方向が変わるきっかけを投げかけてやる。あるいは、こちらは全く動じず、あるいはだきしめてやり、エネルギーの躍動が自然と収まるのを待つ。イメージで例えるなら、動かないポールに、ぐるぐるぐらぐら回っている駒が当たって、こすれて少しづつスピードを落とし、落着き場所を見つけていく感じ。

これは、親子関係以外でも言えること。
相手のエネルギーに飲み込まれたり、つられたりして、不快な気分にさせられることや、自分の状態とは裏腹に異常にテンションをあげられて、後で後悔する、などという経験は結構あるのではないでしょうか。(勿論、この2者間で起こる化学反応は気分のよいスパイラルを産むことだって同じようになります。)

この陰と陽の引き合い、クライアント&セラピストの関係でも言えること。
ただ、違うのは、飲まれたり飲み込まれたり、そんなエネルギーの行き来や揺れる幅をセラピストはとても注意深く観察し、クライアントの回復や変化に必要な要素として意図的に、あるいは無意識的に利用している点です。
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by totoatsuko | 2007-09-20 15:45 | Comments(0)

トクホ ー カラダに異物

d0065558_9241599.jpgここ数年目に付くようになった 「トクホマーク」がついた食品(特別保健用食品)。パンに塗るもの、飲料、加工食品など、その種類は多岐に渡る。Wikipidiaによると特定の保健目的により摂取した時、その効果が期待できる旨を表示することを国が認めた食品とある。脂肪分・糖分が極端に少なかったり、血糖値を下げる働きがあったりと、なんだか本当に体によさそうな印象をうける。でも、本当に体のもとになるのに自然な素材なのだろうか?

添加物の入った食品の気持ち悪さを教えてくれた本を読んでから品質表示にそれまでよりも敏感になっているのだが、先日初めてトクホ印のマーガリンの表示を何気なくみたら、凄いことになっていて頭がクラッときた。仮にコレステロール値をさげてくれるにしても、こんな多種大量の化学薬品を自分の体に取り入れたくはない。ましてや、これから一生使っていく体が爆発的に成長している乳児の子供たちにもだ。いや、人生をともに歩んでいる伴侶も。付け加えるならば、化学調味料の味が日常・ベーシックラインになってしまい、化学調味料が入っていない味を「ものたりない」「まずい」としかとらえられない舌になって欲しくない。自然と舌が化学調味料を求めてしまうようなヤク漬けにはなってほしくないものだ。

勿論、多くの食品に使われている添加物は合法のものだ。それを摂取したからといって、体調を崩すことが立証されているわけではない。しかし、私は他にチョイスがあるのに、あえて薬品入りのものを口にいれたいとは思わない。(店頭に並んでいるものの多くに添加物は入っているので、入っていないものを見つけるには、「探す」という努力をしなくてはならないのだが)たとえ、国が、例えば虫歯になりにくい食品と認定し、それを摂取すれば虫歯になる確率が数字の上で少ないという証拠があったとしても、歯ブラシをかけなかったら、虫歯になることには変わりない。だったら、薬品入りのものを気休めに選らんで摂取するのではなく、自然なものを食べ、歯ブラシをすればすむことではないか。コレステロール値が高いなら、低くなるような食べ合わせをしたり、食べる食材を選び、ちょ理法を選べばいい。

例えば、体重やメタボリズムを気にして無脂肪乳とかヨーグルトとか、砂糖は入っていないが代わりに化学甘味料が沢山はいった飲料を、脂質や糖質が入っていないから大丈夫、と何気なく大量に摂取する。それを繰り返していると、自然の甘みを美味しいと感じられない舌や体になっていき、ますます化学調味料、化学品に頼った食品を体に取り入れた結果、薬品で作られた血液、ひいては体を作っていくことになる。自分がそもそも素で持っている感覚とか、感性にも影響が出てくるだろう。

トクホ 一見カラダによさそうで、薬品の塊(のものが多い)。
その逆説的存在、恐るべし。
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by totoatsuko | 2007-09-20 06:45 | 食について | Comments(0)

小児麻痺と音楽療法

d0065558_132179.jpg小児麻痺の人(に限らないが)は、思うように体が動かせなくて、言葉が発せられなくて、体の成長は実年齢から随分遅れて成長しているのに、心はそれなりに発達して、思春期を迎えたりする。

健康な乳幼児は、体全体を動かして遊ぶ、主張する。それが出来ない上、他の手段を持っていなかったら、どんなにか心と体は閉塞感を感じているだろうか。

誰かを好きになっても、自分に自信がなかったり、伝える術をしらなかったり、恋の切ない気持ちを表現する手段(歌にしたり、詩にしたり、日記に綴ったり、絵にしたり、友達に聞いてもらったり)をもっていなかったら、なんて残念なことだろう。

小児麻痺という病気の性質上(重軽度にもよるが)、その人はとてもフラジル ~壊れやすい、微妙な状態である。激しい動きや環境の変化は混乱を招く。でも、彼らだって人間。激しい心の変化は存在している。そんな彼らに、専門的な視点から音楽を負担にならないように使って関わり、音楽を使ってもらって音楽療法士と関わる。自分を楽しむ。走れないけど、走る音は出せる。走った気分になれる。音が心を刺激し、刺激された心が、新たな音を生む創造力の源になる。泣き叫びたい気分のときは、そんな音をうまく出せるようになる。

音楽の中では、障害から解き放たれた自由を楽しむことが可能なのだ。
それは、わたし達が年に1回ほど検査のためたった数時間断水されるだけなのに「なんて不便なのだろう」と思う状況の単なる逆ではない。数年を通して水が無い・水に飢えて生きている、となりは水が豊富でいいなぁ、と思っていう人に、どれだけ水を使ってもいいよ、なんなら持ってかえって好きなときに好きなだけ使っていいよ、と週一回の音楽療法セッションで水を自分のものにする手助けをしていく。ひいては、自分が必要な水を、そして欲するなら(こういう自分なりの欲望がでてくること自体、セッションでの体験によって自分に自信がもてるようになった証)その水をつかって畑をたがやそう、そんな感じで自分の体と相談しながら、自分の持っているリソース・可能性を最大限活かしていこう、と思えるようになる。音楽療法士はそのプロセスを、真剣にサポートしていく。
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by totoatsuko | 2007-09-18 13:29 | Comments(0)

箱根の森彫刻美術館

d0065558_12594469.jpg連休 箱根の森彫刻美術館に行ってきた。

屋内の美術館ではなく、野外の緑に囲まれて置かれた巨大な彫刻たちは
同じものでも、まったく違う存在にかんじられた。

例えば、大人の5倍は軽くありそうな、ごっつい女性のようなフィギュア。
館内でみれば、うわー おっきい!と自分が基準でみてしまいがちだけど、ここでは、自分がガリバーになった気分。周りの大木と対等な大きさのフィギュアや他の彫刻作品があまりにも当たり前に存在しているので、それらが標準の大きさで自分はちっぽけな蟻のような気分になれた。

いつも、いつも、社会の責任、自分の役回りについてAwareであろうとすると、大きいものに抱かれ、自分のちっぽけな言動が誰にも気にされない、誰にも影響をあたえないんだ、というこの感覚は、いろんなものから隠れて自分の存在の重さを軽減できるような気がした。

自分に責任をもたなくていい、というのは楽なものである。
深いことを考えずに、自分や周りを感じようとせず、やりたい放題できるような感覚を覚えるひともいるかもしれない。しかしそれで、充実した・満足できる時間が過ごすせられればよいが、自分を持たず生きるというのは、空虚を生きているようなものである。

人間は欲なもので、責任を放棄しても、権利を主張したがる。自分の思うようにやる・生きる権利。しかし、自分らしく生きるということは、自分が納得いく・自分が喜ぶ「選択」を意識的であろうと、無意識であろうとやっているわけで、それに対して責任を放棄してしまったら、その選択はすでに自分のものではない。ある選択をした結果が自分の希望通りではならなかった時、周りの誰かや環境、あるいは、自分の嫌いな一面のせいにして、自虐的思考・行動をとる。

自分が受け入れたくない結果と向かい合わなくてはならないとき、周りのせいにしていては、永久に自分らしくは生きれないし、永遠に自分の生き方に満足できない。何故なら、自分に自分の生き様にコミット(commit)していないから。

自分の無意識の思考パターンや自分の「あり様」を、音楽心理療法セッションでは少しずつゆっくりと音や色にしていく。誰かに指摘されたり、説教をされたり、大きな失敗をして突然嫌な自分を見せつけられてショックを受ける・という強烈で自虐的なやりかたではなく、自分のペースで自分と向かい合うプロセスを行なっていく。ガリバーになってみてもいい、カリバーを見下ろす巨人ヵらガリバーの生き様を詳細にみていってもいい。自分の「今」の姿(意識的に気づいていない部分の自分)を知ることによって、今の「何かうまくいっていない自分」が、自然と変わっていく。何故なら、わたし達の無意識は、常にバランスをとろうと働きかけているから。
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by totoatsuko | 2007-09-18 12:59 | Comments(0)

裏づけがあってこそ

d0065558_1255697.jpgマクロビオティックの料理教室にいってきた。3時間の枠でつくったものは、玄米御飯・小松菜のおひたし・牛蒡の煮物胡麻クリームかけ・切干大根・お味噌汁。まぁ、前後間に説明や試食片付けなどがあったから、実際自分でやれば(玄米は土鍋で1時間半炊くのにかかる)45分あれば作れるかもしれない。だけどマクロビオティオティックのやり方考え方なしにやれば、最短20分でつくれてしまえそうな内容なだけに、その時間のかけ方は半端ではない様に感じた。

牛蒡を切って圧力鍋に放りこみ、小松菜をレンジに茹でてもらっている間に、切干大根を鍋に入れて煮始め、胡麻クリームを練り合わせる。約4分後、ピロリンとレンジがなったら、小松菜を水にさらし、牛蒡と切干大根に調味料を足して、小松菜を切って、あとは御飯が炊けるのをまつだけ。

でも、教室では、ひとつひとつの作業にものすごく時間をかける。例えば、牛蒡を土鍋で低温で常に混ぜながら火を通す。何故電子レンジやIHという電磁波をマクロビオティックの調理方法に取り入れないのか、きちんとした理由がある。ここでは弱火でじーーーっと火がとおるまで鍋の前にたって単純かきまぜ作業を繰り返して待る。何故土鍋なのかも理由がある。例えば圧力鍋でやると細胞を急激に圧縮する力がはいってしまい、そういうものを体とい体が知事困ってしまう、硬くなってしまう、という理由から。

玄米も、炊飯器・圧力鍋・土鍋で炊いたものでは食感や味がまっっったく違った。
(ここで、私が言いたいのは、「違う」という事実である。どの調理法が自分の体にあっているかは、自分で決めればよいことであると・と自分の舌と体の状態を信じることがもっとも大事だ。)

アメリカにいる時は、マクロビオティックは知らなかったけど、美味しいからという理由だけで、玄米を食に取り入れていたし、その後も興味があったので時々本を立ち読みしていたりしたけれど、料理教室で料理をする人の料理や食に対する姿勢を生でふれることにより、本や雑誌で得られることにはいかに限りがあるかを痛感した。自分がいかにマクロビオチックの本質をなーーんにも知らなくて、表面的な知識とイメージしかもっていなかったか。

おなじメニューでも、
例えば、私がたまたまそのメニューの組み合わせを思いついて、20分でさささっ、とつくったものと、理由があってそれらの食材の食べ合わせを決めて、マクロビオティックの理念にきっちり基づいて、倍以上の時間をかけてつくったもの。

きっと見た目はどちらも大して変わらない。でも、味は明らかに違うし、大事につくられたものをだされたら、大事に食べようという気持ちが自然と湧き出てくるから不思議だ。それに、たまたまできたメニューはたまたまであるに過ぎない。一本の筋の通った理論と自分自身の哲学をもって食物を手がけている人は、そのバランスとれた組み合わせを何百種類も手の内にもっていて、気候・時期・食べる人によって、ぶれずにいいものを提供できる。


音楽療法も同じだと思った。
音楽がいいのは誰だって知ってる。即興だって、誰だって弾ける。歌だって誰だって作れるし、楽器だって誰でも弾ける。CDプレーヤーをONにして、家族や友人をリラックスさせてあげることだって出来るだろう。

でも、何故 音楽心理療法士 と自分のアイデンティティーを 歌のお姉さんや音楽愛好家や 音楽の先生と区別しているかというと、音楽を扱うことに対して専門的な理論や哲学を持っているからだ。例えば結果的に、保母さんと同じように同じ歌を歌ったとしても、音楽療法士は説明できる、何故その曲で、何故10秒前でも1分後でもない、あの瞬間歌い始めたのか、何故あのテンポで、あの音程で、あの音量を「選んだ」のか。なぜ、あのようなセッションの形でなければならなかったのか、を。

そして、私はいつでも準備が出来ている・相手がどんな反応を起こそうともそれを受け入れる準備が。途中で反抗されても、途中で部屋を出ようとされても、途中で突然怒りを爆発させられても、泣き出されても。なぜなら、音楽が予想もしないチカラを人間の心と魂と体に働きかけてること、人間は時にその力に喚起されたり流されたりすることがある事を知っているから。そして、その対処の仕方を頭と経験で学んでいるから。専門的な視点や哲学がなければ、専門家として常に学び続けていなければ、クライアントが発する音の重要性を見逃してしまう。重たいものがクライアントから発せられた時、自分にその資質がなければ、逃げ出すか見なかったことにして通り越すしかできず、ただただ楽しい時間としてまるく収めようとだけしてしまう。それはセラピストのやることではない。クライアントから何が出てきても、キチンと受け止められる・向かい合えるのがセラピスト。


マクロビオティックの料理方法、とてもじゃないけど食事毎にそんなに時間とエネルギーをかけて出来ません、と思ったけれど、その考え方や哲学を知ることが出来て、とてもよかった。時間に余裕があり、気持ちが向いたときは、是非とも自分の食にとりいれていきたいと思う。
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by totoatsuko | 2007-09-14 08:21 | Comments(0)

いろいろあっていい・音楽療法

d0065558_1253749.jpg成育医療センターで、ちっちゃな医師・看護婦グループ向けに、成育唯一のチャイルドライフスペシャリストの方とのジョイントプレゼンをした。音楽療法ってこんなものなんですよー、と。

プレゼン終了後、歌のお姉さんと私が「本質的に全く違う」のだ、ということが分かってもらえたようで、嬉しかった。

はやりのように広がっている音楽療法だけど、どこまでどんなことが音楽療法にできるか知っている人は本当に少ない。

介護施設で大人数グループをあいてに楽しい音楽の時間を提供するのも、
末期がんの人や家族に気がまぎれ、楽しい会話が弾む音楽の時間を提供するのも、
病気や障害を持った子どもに歌を唄ってあげるのも、
美しい音楽を演奏して心地よい時間を提供するのも、
音楽療法。

介護施設で、もう体も動かなくなり口も利けなくなっている人の魂のエネルギーの地下水脈を注意深く探るようにして、一つ一つの言葉かけ、一音いちおんを厳選してその人との関係の中でつむぎだしてその人の声を呼び覚ますのも、

変遷意識状態の人のささやかな体の動きを音に転換し、その人が生きている証を私がちゃんと感じ取っていることを音で伝え、微妙な音とエネルギーのやりとりを繰り返すことにより、その人の魂が生死の淵から、生の方へ戻ってみようと思わせるのも、
音楽療法。

以前は、前者のような意識の上澄みあたりを扱っているようなもの・あるいは音楽療法士というプロでなくてもできるような内容のものを「音楽療法」とメディアや療法士本人たちが言っているのには、とても抵抗があった。しかし、日本ですごしはじめて、「名称」は大事ではないと考えるようになった。一時的にでも気がまぎれ、クライアントがそれでよろこんでいるなら、それはクライアントのニーズを満たしているのだから。

心の本質的なもつれやバランスを崩したところを「わざと避ける」「取り扱わないように配慮する」音楽療法セッションが日本の音楽療法の主流を占めていて、多くの人の音楽療法に対する認識が、そこで止まってしまっているのが残念だ。音楽療法士自身がサイコセラピーを受けて自分自身の闇・心の状態と向かい合ったことがないと、どうしても他人の闇を無意識、あるいは意識的に避けてしまうのはしょうがないことだ。(むしろ、セラピーを受けた事がないセラピストには、クライアントのシャドウを扱おうとは試みないで欲しい)

いろんなセッションの形があっていいと思うし、あるべきだと思う。
でも、もっとより多くの人達に、音楽療法はただ楽しい時間を過ごすためのものだけではない、
心理療法だったり、リハビリだったり、もっともっと深い作業ができることを、
きちんとした学問の上に成り立っていることを知ってもらいたい、、、
いや学問どうこうはいい、音楽療法の可能性を信頼できるよう、私たち音楽療法士は日々のセッションを大事に作っていき、外に向けて分かりやすく、信憑性の高い情報を発信していかなくてはならないのだろう、と思う。
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by totoatsuko | 2007-09-13 22:08 | Comments(0)

鬱っぽいあなたが悪いのではない

d0065558_22481434.jpg鬱っぽくなったり、気持ちが暗く内側に向かっていっていたり、精神不安定なとき、自分のふがいなさとか、自信のなさとか、周りの期待に応えられない自分とか、とにかく自分の何かが悪いと思い込んで、ますます落ち込んでしまうことがある。

そして、そんな状況を打破できない自分をまた責めてしまったりする。
自分は甘えてるんじゃないか、とか気合が足りないんじゃないかとか、努力不足なんじゃないか、とか。

でも、それは多くの場合思い込みにすぎない。
鬱の思考パターンにはまってしまって、自分を自分が攻撃してしまい、ますます内側に籠もるようになっているだけ。

今、起き上がる気力がないのも、なにもやる気がしないのも、あなたの何かが悪いからなのでは決していない。ただ、体や心のバランスが崩れて、心で感じていることと頭で考えていることと体がかみ合わさっていないだけ。だから、自分のその状態を決して恥じないで。バランスを崩すことは誰にでも起こること、どんなに優秀な人でも、どんなに幸せそうな人生を送っている人にでも、どんなにまじめに生きている人にも。

そして、なんとかなるさ・もう少しすれば良くなる、と放置せずに、早く専門家のドアを叩くことをお勧めする。何故なら、症状を大体把握できる風邪と違って(風邪だとおもっていたら、なかなか回復せずもっと深刻な病気の前兆にすぎなかった、ということもあるが)、自分が意識している以上に心と体のバランスの均衡が崩れている場合が多いから。大きく崩れてしまった後に治療するよりは、消耗してしまう前に早めの対応をする方が心も体も回復のためにエネルギーを使うことができるから。

音楽心理療法・即興演奏・色
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by totoatsuko | 2007-09-11 22:25 | Comments(0)

規律

d0065558_14101744.jpg休暇中 子供達と24時間10日間連続で一緒にいた。
2人とも3ヶ月から保育園にいっているので、こういう状況は私にとっても、彼らにとっても久しぶりだ。2歳ちょっとの上の子供は、ものすごく甘えんぼになり、自分が思うようにならないときすぐ泣くし、本当に自分が欲しいとおもっていなくても、大人の注意を引くために 「お茶」とか「ニモ」とか要求してくる。そして、お茶を用意してあげたら、「ちがう」とまた癇癪。自分が何が欲しいのか、どうして欲しいのか分からなくなっている、自分の混乱や不機嫌でまわりをひっかきまわしている感じ。それに対応する大人・いう事を聞いてあげて、ふりまわされたら、その混沌は大人にまで波紋し、みんながみんなイライラ アンハッピー で余計な消耗。空気が悪くなる。その上、一人遊びもあまりできなくなっていたし、御飯もひとりで食べたがらなくなった。御昼ねもしたがらない。

本来なら、一人遊びにしかない楽しみを楽しめたのに
本来なら、自分で食べれる事に自信と自尊心を持てていたのに
本来なら、疲れた体を休めて、体調管理が自然とできていたのに。

普段一緒にいない分、甘えたかった、というのが始まりだったのかもしれない。
旅行という、非 日常で精神不安定になっていたのかもしれない。


そう思っていたから、出来るだけ彼のニーズを汲み取ろうと彼と向かい合っていたけれど、彼の言動はなんだかおかしい状態だった。アンハッピーになる理由なんかないのに、すぐ機嫌が悪くなって、感情のジェットコースターにのってガクガクしているようだった。可哀想だった。

子供は、その存在自体が混沌で、秩序という秩序が自分の中にない。
その混沌の中にしか存在しない未知数の可能性はあるが、
規則正しい生活とか、親が与えるルールなどの精神的な拠り所がないと、未知数は未知数ではなくなる。混沌はそのままでは混沌のままで、混沌から何かが抽出されるには何か軸のような、道しるべのようなものが内側と外側から存在している必要がある。

月曜に保育園に行って帰ってきたら、コロっともとの彼に戻った。
ちょっとまって、といったら我慢できるし、くまのぬいぐるみや弟を膝にのせて御飯をたべさせてあげようとする、他人の世話をしてあげたいと思えるだけの心の余裕も戻った。御昼ねもちゃんとするから、体も元気だし、一人で遊ぶのも楽しめるから、常に私のアテンションが彼に集中していなくても、心静かに過ごすことが出来る。


定期的な音楽心理療法セッションも、心の軸を強化したり、整理整頓したり、秩序をチェックしたり、日頃のうっぷんを晴らすことにより、襲い掛かってくる混沌を沈静化することができる。感情のジェットコースターの舵を自分がとるために、心のプロセスを音楽と色でやっていく。
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by totoatsuko | 2007-09-11 14:17 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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