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カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

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音楽療法士? いらないよ

ここ数年で音楽療法学科を数多くの大学が設けた。
1999年(私が音楽療法をちゃんと学びたい、と思った時)の時点では、1つもなかったのに。
はやりのように、広がっている。
でも、ちゃんと音楽療法は何ができて、何が出来ないのか世間は認識していないと感じるし、音楽療法士を名乗っている人でも、その可能性や深さを知らないんじゃないかな、と思わされることもある。

私が知っている限りでは、NYの大きな医療施設介護施設は、音楽療法士が他のセラピストと同等に雇われている。そしてプロフェッショナルチームワークの大事な一員として扱われている。患者さんのカルテも見るし、チームミーティングにも出るし。

日本でも、そういう風に扱ってくれる雇用主もいれば、音楽療法士?いらないよ、ボランティアでピアノ弾きにきてくれるひとで十分。下手に患者やその家族の心を逆なでされて問題を起こされたら困るし、そんな感じの対応をする所も沢山。

従来の医療・介護サービスでその施設の運営が成り立っている場合、よく分からない音楽療法士をあえて雇う必要性を感じないのは当然だ。心の深いところに触れようと思っていなくても触れてしまう可能性が高い分、そのセラピストが未熟なら大変なことになってしまう。傷をほじくりかえして、それに圧倒されたセラピストはクライナントと一緒にどつぼにはまってしまう。
もし、音楽療法士をオマケとして雇った(みなしている)ならば、自体はもっと悪化する。何故なら、セッションによって患者の抑えていた怒りや悲しみが出てきたときに、そのセラピストがケアチームから孤立していたら、ケアチームとしてトータルなケアを提供することが出来ないうえ、音楽療法士は「怒り」を開放させてやっかいな事を持ち込んだ悪いヤツ、とみなされてしまい、真に患者さんのケアをすることが出来ないからだ。

感情が表面化することは、やっかいだ。
だから、みんな押さえ込んでる。
でも、それを開放することが悪い、とは一概にはいえない。
むしろ、出てきた感情を放置するほうが、残酷で無責任だ。
膿が出てきたときに、出てきたこと自体、出てくるきっかけを作った者を非難しては何も始まらない。膿はそこにある、目に見える形ででてこようと、出て来まいと。

何事も(それは、会社の人生だったり、一人の人間だったり、地域社会のありかただったり)
隠されている膿をだして、根本から回復するには、
今の状況(とりあえず安定している・まわっている)を打破して、新しい成長を生むには、
不安定な移行期間を通らざるをえない。

でも、そこを通り抜ける覚悟が出来れば、顧客や患者さんに対して他(新しいダイナミックス・要素に挑戦し、試行錯誤することを避けてきたもの)にはない画期的なサービスが提供できるし、挑戦した人たちはや施設は、移行期間で悩み、自分たちのこれまであり方を省みて、あるべき姿や哲学を模索しながら作り上げていった新しい自分たちの姿に、誇りを持つことが出来るだろう。

音楽療法士がいなくたって、今までの日本の医療は回っていたし、今だって回ってる。
音楽療法士がいなくたって、社会は崩壊していない。
音楽療法がなくても、生きていられる。
でも、それでは何も成長がない。
他の社会から、国から、とりのこされてしまう。

音楽療法士とのセッションがあったから、人生がより明るくなったり、自分らしく生きれるようになる (これって、さらっと読み流すと大した事無い感じだけど、実際自分の人生がそういう風に変わる事って、なかなか凄い体験なのです)人が少しでもいるのなら、その存在はもっと認められてもいいのではないかと思う。
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by totoatsuko | 2007-08-31 17:04 | Comments(1)

ベーグル雑感

d0065558_17404415.jpgNYには2大ベーグル屋があって、嬉しいことにそのうち一つが家の近所にあったので、財布がひもじい時に限らず、ベーグル大好きな私はよく買っていた。
おおきいどっしりしたモチモチベーグルを80セント(約100円)で買って、リバーサイドパークほおばる、ささやかなひと時。

日本で流通しているベーグルの味はNYのベーグルとは全く別物なので、
近所のベーグル屋さんがNYのベーグルの食感に限りなく近いものを創ってくれていて、とっても嬉しい。

でも、大きさが日本サイズで値段が一個200円以上出さないと買えなくて、営業時間も短いという現実は、余計あの、安くて大きくておおざっぱにモチモチしている80セントのベーグルを24時間売ってくれるあのお店と、あの街の匂いと街並みが恋しくなって、悲しくなるから、なかなか足が向いていない。

パンをNYで買うのが初めての時は、あっためてください、と頼むのに"hot please"とか言って、南米からの移民アメリカ人に”????”ってな顔されたっけ。

今日、ふと思いたって久しぶりに買いに行った、あの味が恋しくなって。
ちょっと甘酸っぱい味がした。
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by totoatsuko | 2007-08-30 17:42 | Comments(0)

信念を持った人

詰めていたものがとれたので、あわててネットで近所の歯医者さんを探して行った。
行ってみると、私の歯医者さんのイメージとは、いい意味で全く違う感じのよいところだった。
鼻を刺すような匂いもないし、病院の床にありがちなペタペタしたものは極力範囲狭くしいてあり、ほとんどの所は絨毯がしいてある。

気に入ったし、ここ10年以上歯医者に行っていなかったので、取れたものを直してもらうだけではなくて、このさい色々綺麗にしてもらおう、と決心し通い始めた。貼ってあるポスターとか、HPを読むと、虫歯治療以外のことも色々やっていそうだったし。

ある日、先生が私が何をやっているかという話から、音楽療法は何が出来るのか興味をもたれたので、色々長話になり、彼がどういうスタンスで治療をしているか、どういう哲学をもってどういう内容の治療を患者さんに提案しているか、ということを伺うことになり、ますますこの歯医者さんを気に入った。

例えば、審美歯科・いわゆるハリウッドスターや芸能人のような綺麗な歯の色や歯並びを求められれば、治療出来ますが、その結果かみ合わせが悪くなり、肩や腰を痛めてしまうことがある歯やあごの人には、あまりお勧めしていません。私はまだまだですが、私の先生は歯並びや診察室にくる足音を聞いただけで、どんな人生を送ってきたか(00歳の時、事故をしたでしょう?とか、何を主に食べてきたか、とかどんな成長環境だったかとか)分かるくらいです。だから、患者さんにも、ご自身の歯を大事にされるよう、話をします。なるべくなら、その人が人生をともにしてきた歯に、むやみやたらと「見た目がよくなる」という理由だけで手を加えたくないのです。

壁に貼ってある証明書にアメリカの大学のものがいくつかあったので、アメリカで学ばれたのですか?と尋ねると、大学は日本で、アメリカの大学に集中講座などを取りに行ったりしているのだそう。日本の大学で、上のような理念を教えてくれるのですか?ときくと いえいえ、全然日本はそういう感じじゃないです。技術とか知識以外のプロフェッショナルとしての姿勢の重要性を語る人は多くありません。こういう哲学はアメリカ人の先生から教えられました。だから、こういうこと言う私は最近学会とかで浮いちゃってるんですよね。

やっぱりそうか。
日本って、技術や知識や地位がたくさんあれば、それだけで尊敬されたり、エライって思われる。むしろ、哲学とか信念とかなくても、腕がよければいい、って思ってる日本人はたくさんいるのではないか?だから、日本のプロフェッショナルは、自身の「人間力」を磨かないのかも。

しかしプロフェッショナルを掲げているのなら、その道の仕事が出来るのは当然。
私は、それ+アルファを求める。
だって、私と直接触れているのは、会話しているのは、技術そのものではなく、それをデリバリーする人間だから。

音楽療法も、同じ。
自分の哲学を持ち、それに対して自信をもって人と接しているプロフェッショナル(別に医療関係者にとどまらず、会社経営者にしても、スポーツ選手にしても、料理職人にしても、農業を営む人にしても)に出会うと、とても気持ちがいい。そういう人と仕事を一緒にしたいし、そういう人の手から生まれる食物や料理を食べたい、と思うし、そういう芸術やスポーツを見たいし参加したい。。
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by totoatsuko | 2007-08-28 12:56 | Comments(0)

歴史は繰り返すIV セラピストがトラウマによりそう時

d0065558_9462681.jpgそう、なぜ図らずも「歴史は繰り返すI」の冒頭で私の体調不調を長々とかいてしまったかというのは、ここに起因する。セラピストは、クライアントの心によりそえば寄り添うほど、クライアントの心が経験しているものと酷似する痛みや苦しみ、恐怖を感じる。それも、あたかも自分のもののように。例えば、クライアントが話す悪夢と同じものを見るようになったり、あるいは、クライアントと同じ思考や言動パターンを無意識のうちに行って自分を傷つけたり、否定したり。結果クライアントとの関係がセラピューティックではないものにしてしまう。しっかりと自分のバウンダリーを持っていないと、クライアントとの境界線がトラウマのもの凄いエネルギーによって破壊されていく現象すら起きる。

クライアントに今何が起こっているのか?
クライアントと私の関係で何がおこっているか?
クライアントのプロセスは、私の中の未解決な心の問題を引き出しているのではないか?

自分の体調や心の不調は、これらの重要な情報を教えてくれているのかもしれない、と受け止めるので、私は体調を崩しても、あわてて薬を飲んですぐに治してしまおうとせずに、少し症状に向かい合ってみる。

それくらいトラウマをもった心の闇は、本人だけでなく、その周りの人の「無意識の層」にも恐ろしく力強く働きかけ、闇にひきづりこむむ。だから、セラピストは、片足はずっぽりクライアントの世界に浸かりクライアントに寄り添っても、もう一本の足は、しっかりと健康な大地を踏みしめ(底なし沼ではなく)、目は、クライアントの姿だけではなく、自分の立ち姿と、そのまわり・近くと遠くをどちらも注意深く観察し、耳はクライアントの心だけではなく、それを聞いてざわめく自分の心にも傾けつつ、周囲の微音も突発音も聞き逃さなぬよう、配慮しなくてはならない。これは、どんなに優秀なセラピストでも一人では出来ないことだ。スーパーバイザーやピアーサポートがなければ、トラウマの勢力と自信をもって対峙できない。

それでも、もし自分が一人でできる、と感じているなら、それはすでにクライアントのヘルプレス・不安のどん底にいるのに、誰にも助けを求めず、自分に辛い思いを無意識の内にさせ続けている行動パターンが、自分に移っている証拠・あるいは自分自身が持っているヘルプレスな要素がアクフェィブになってきているかもしれない。

トラウマは、あまりに恐ろしい経験だったために、心の深い深いところにうめこまれているから、頭でその記憶をたどっても、そんなに怖いこと・嫌だった事として思い出されない。
だからといって、あの出来事・あの関係はそれほど嫌ではなかったんだ、というのではなく、
その時感じていた本当の感情(恐怖?不安?憎しみ?)を思い出そうとしても思い出せない程深い所に鍵をかけて押し込まねばならなかったほどの経験だったのだ、というほうが正しい。

クライアントのトラウマは、セラピスト自身の心のissue(ダイナミックス、問題、トラウマ)を引き起こす。セラピストの心の奥底にある倉庫の頑丈な鍵をいとも簡単にぶち破って、セラピストの心の闇を開放し、力を増強させ、セラピストとクライアントどちらもを食い尽くすことだってできる。

トラウマをもっている人とセラピストとして関わるるのなら、
自分自身のサポートシステムがしっかりしていないと、こういう事が起こるのだと、
そして、闇に自分が飲まれてしまったら、到底セラピーにはならずクライアントをも傷つけてしまうのだ、という事を覚悟して取り組まなくてはならない。
GIM 音楽心理療法 アート サイコセラピー
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by totoatsuko | 2007-08-24 10:29 | Comments(0)

歴史は繰り返すIII

d0065558_947196.jpgよくあるケースは、レイプをされた経験がある人は、多くの場合1回限りではなく、何度もされている。それは、被害者が無意識の内に、レイプされるよう誘うしぐさをしている場合が多いからだ。

アメリカのあるレイプ裁判で、加害者が真顔で「彼女が(路上で)誘ってきたのだ」と言う。勿論、加害者は他にもレイプ歴があるから、レイプ出来そうな相手を探していたかもしれないが、
言い換えれば、レイプ犯に「コイツならやらしてもらえる、やれる」と思わせる何かを、被害者は発信していたかもしれない。
レイプという形でしか、あるいは心を傷つけながら関わる方法しか、人との関わり方を知らない二人がすれ違ってしまって起きた事件。

誤解しないで欲しいのは、(無意識のうちに)誘うような何かを発していたからといって、本人はレイプされて喜んでいない。むしろ、もっともっと深く傷ついている。重い精神障害(PTSD - Post Traumatic disorder)を発症することもよくある。
でも、自分を生贄にしますよ、嫌だけど我慢します、という態度をとることによってのみ虐待的な親や家族の中で生きていけない、ということを子どもの頃たたきこまれたら、人に対してそう振舞うのがあたりまえと思ってしまう。だって、それしか、家族の注意をひきつける子すべを知らないのだから。おとなになって、そうではない関係ー例えば対等な関係や、自分をリスペクト・尊重してくれる人が仮に現れても、かえって、怖かったり、猜疑心を膨らませ、折角の健全な自分のあり方、人とのかかわり方を身に着ける機会を無意識にだが、確実に避ける。何故なら、そもそも自分にとってなれない関係だし、仮にこの健全な関係を学んでしまったら、自虐的な関係(=心のふるさと、心の初期状態)との狭間で混乱してしまうか、ふるさとを失ってしまう怖れがあるから。


戦争はひどい、と誰もが認識している。
でも、世界のどこかでそれは続いているし、国の首脳たちは、本気で戦争を根絶さそうと考えてない。「美しい国」を謳ってるだれかさんも含めて。歴史はいつでも繰り返されている。どんなに賢い人達でも、繰り返す。

個人の心に植えつけられた行動・思考・感情パターンは、そのままでは絶対に消えない、残念ながら。中途半端な専門家でも、手助けできない。もしろ、一緒に奈落へ堕ちてしまう。一度子どもの頃に歪な関係や愛情表現を埋め込まれたら、それ位、自動的に心と頭が自虐的に作動する仕組みは強固で、凶暴で、深淵なのだ。

子どもの頃に身につけた考え方や物事の受け止め方が、大人になってからの生き方や選択、人との関わり方、価値観にどのように影響を与えているか自覚している人は少ない。でも、積極的に選択したわけではなく、浴びるように浸かっているようにして用意された環境で身につけたものが、果たして、今の自分が必要としているものなのか?自分が生きたい生き方に添うものなのか、教えられたものに振り回されていないか吟味してみるのは、凄く意味があることだと思う。
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by totoatsuko | 2007-08-23 14:52 | Comments(0)

歴史は繰り返すII

d0065558_1092356.jpg例えば、ありのままの自分を認めてくれない親ー
常に「もっとこういう風に振舞えれば、素敵と思われるのに、今のお前はろくでなし」
「お前は自己中心的すぎて、そのままでは社会で生きていけないぞ」

あるいは、その否定の仕方が、言葉ではなく暴力だったり性的虐待だったり。

素敵 の概念は人それぞれ
自己中かどうかも、受け止め方しだい

だけれども、親の擁護が必要な,あるいは、親の存在や考え方が全てである、親に保護してもらわないと生きていけない小さな頃からそう扱われていると、自分はそういう人間だと洗脳されてしまう。
自分はダメな人間で、だからいつも自分を改善するように努力し続けなくてはいけなくて、でも、どんなに努力しても親がありのままの自分を認めてくれることはない(虐待は続くのだし、親の心の問題も子どもを虐待することで解決はされないから)。 

そんな子どもは、自分にとても自信がない人ーいつも自分に対して否定的・卑屈になってしまうことが多い。あるいは、過度に人の批判を気にしてしまう。

どんなに親に罵倒され、親を憎んでいても、
その「最悪な状態」が、その人にとってホームなのだ。
あるいは、そういう人にとって、ホーム というのが「安心できる場所」ではなく「辛い場所」とインプットされている。だから「辛い思い」をしない場所や関係を避ける・受け入れられない。

罵倒することが愛情表現
罵倒してもらえるということは、自分に興味を持ってくれている証拠
罵倒されるのが自分だけなのは、自分が親にとってスペシャルな存在だから
恐怖でも悪でも、それしか自分にとって頼れるもの(親・家庭・恋人)はない
自分を完全否定しても、雨をしのぐ屋根は提供してくれ、不快感を及ぼす形であれ「抱擁」してくれる。

子どもは、その最悪な状態を生き抜くための思考回路を構築し、心の奥底にインプリントする。辛い思いをすることが、自分を愛してもらえる方法であり、落ち着くべき場所だと。
その思考は、嫌な経験とともに、自分が努力して創っていったという苦労を辛さをも忘れてしまえるよう、無意識の深い 深い層へ組み込んでいく。だから、成長して、親が自分にやったことがマトモな愛情表現ではない、と頭で学んでも、心に打ち込まれた導線は消えない。
(続)
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by totoatsuko | 2007-08-23 14:51 | Comments(0)

歴史はくり返す

d0065558_1094437.jpgここのところ頭痛と体の節々が痛く熱があった日も。
子どもの頃、バファリン(頭痛薬)のCMで、お母さんが頭痛で辛そうにしてるけどバファリンを飲んだおかげで元気になって、コドモ二人が嬉しそうに「よかったね!おかぁさん(スマイル)」を思い出した。

当時は頭痛を経験したことも、親業を体験したこともなかったので、シンパシー・共感を感じることなく見ていたけれど、いゃ、よーく分かりました。元気なときでさえ、仕事とハウスキーパーと親業をこなすのは消耗が激しいのに、体調がわるかったらにっちもさっちもいかない。ヘルプレスな状態。一人暮らしなら、寝てればいいが、ゴハンとかお手洗いとか、眠いとか、つまんない、とか、そんな原始的で、理屈で我慢するように説得できない欲求を突きつけられたら、動くしかないのだ。(でも 動けなかったりする。。。)

いやいや、前置きが長くなりましたが、今日は自分にとって害のある関係でも、わざと繰り返し選んでしまう、という話。

例えば、いつも同じタイプの男性・女性を選んで、結局はどの人とも長く続かない、
次に付き合う人は、違うタイプの人にしようと心に誓っても、魅かれる人は似たタイプ、とか

虐待を子どもの頃経験した人は、虐待されたり、虐待するタイプの人になる場合が多い、とか

自分の親との関係・ダイナミックスを
親になった自分が、自分の子どもに、全く同じような関係になる事を期待するとか。

例えば、自分が親に対してとても従順で受動的、親は自分に対して権威的であったら、
自分に対して子どもは従順であるべきだと、自分は子どもの権威的な存在であるべきだと、
無意識に思っている。たとえ、自分が子どもの頃そういう親子関係が嫌だと思っていたにしても、同じことを子どもにやってしまう。あるいは、権威的であらねばならない、と自分に呪縛をかけて、そうなれない自分とのギャップの狭間で苦しくなる。また、その子どもも自分の子ども(孫世代)に同じことを繰り返す可能性は高く、、、個人の心の問題は、世代を超えた家族のダイナミックスに根付いている事が多々あるのだ。
(続)GIM サイコセラピー
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by totoatsuko | 2007-08-23 14:22 | Comments(0)

視点をかえてみる

d0065558_16274638.jpgさいきん家のダイニングテーブルが変わった。
レストランや家庭のスタンダードな高さは75cm前後らしいのだけど、
ウチのは65cmである。

掘りごたつダイニングにしたかったのだけれど、諸事情で却下になった。
代替案として、高さは掘りごたつ仕様にしたのだ。
すわる部分も片側は椅子だが、片側は幅広のベンチ(もともとは1920年代にアメリカで台車としてつかわれていたもの)にした。

これが、妙に落ち着く。
私は背が高い方ではないので、足の曲がり具合とか、床と自分の体のバランスが取れている感じなのだ。

ベンチは、後ろに手をついたり、胡坐をかいてもゆったり座れるので、食事以外の寛ぎタイムにも利用したくなる。

座面(座るところ)の高さも38cmと机の高さにあわせて低いから(通常45cm位)、床に座っている人とお喋りするのにギャップをあまり感じない、という利点もアリ。

そしてふと思う。
誰が ダイニングテーブルのスタンダードは75cmって決めたんだろう?って。

日本は、昔は床の生活だったから、このテーブルとカタカナ表記であることからも、欧米のスタンダードがそのまま適応されたと考えるのが簡単。舶来物のテーブルをそのまま日本の家屋・食卓に運び込んだわけだ。

でも、欧米人と日本人って体格が全然違う。
食卓に並べられるお皿の大きさ、料理(鍋だったり、鉄板だったり)だって違う。
そうしたら、机の高さや大きさは、日本人の姿勢と食にあったものにアジャストしたほうがいいに決まってるんじゃないだろうか?

テーブルが希少で、珍しく存在だった頃から時代は随分流れ
今は様々なテーブルが流通しているのに、
ほとんどの日本人が食卓に欧米スタンダードを何の疑問も持たずに取り入れ続けているなんて、なんだかすごく不思議な気がしてきた。
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by totoatsuko | 2007-08-17 16:37 | Comments(0)

あたりまえのこと

d0065558_1611424.jpgピアノを本気でやっていたとき、
当たり前に、普通に美しく、普通に音の粒がそろって聴こえるように、
楽譜にかかれたとおりのクレッシェンド・ディミヌエンドをするのがいかに難しかったか。

なにも努力をしなかったら、聴衆に「普通」に聴こえる「ひとサマに聴いて頂く」演奏ができない。
練習不足勉強不足は、おかしな楽譜解釈や、ミスタッチ、テンポの崩れ、自分が表現したいことが出来ない上に、暗譜の危うさが露呈する。演奏どころではなくなる。

だから、聴衆の心に残るほど印象的に美しく、あるいは芸術的に完成度が高い演奏をする、というのは至難の業であることを わたしなりに だがよく知っている。


あたりまえである、という状況を作るのはある意味凄く難しい。
難しいと感じ始めたら、とことん難しくなる。
何故なら、個々人のなにもしない状態でのありのままの自分と、世間としての「あたりまえ」の基準の間には、大きなギャップがあるからだ。

成長する過程で、環境や友達、家族から、世間での振舞いの所作を身につける。
ありのままの自分と、外向けの自分のギャップを埋める方法・作戦・知恵。
考え方や、物事の対処の仕方も。
こういうときは、笑顔(作り笑い?)で対応、こういうときは神妙な顔で従順さをアピールe.t.c.


こうやって「さしさわりのない」振る舞いや考え方が「考えなくても自動的に」出来るようになると、日本文化で生きやすい。とりたてて目立たないから、いちいちあげあしを取られたり、批判されないし。演奏と同じ。譜面通りに弾いていれば、とりあえずケチはつけられない。つけられるとしたら、それは「つまらない」演奏、あるいは演奏解釈ーと言われること。。。この反応は演奏家にとってはあまり名誉なことではない。誰がひいても同じ演奏なら、あえて「自分」という演奏家がその音楽を奏でる付加価値が、重みが軽くなる。(もちろん、「つまらない」が「あたりまえに美しく」演奏できる事が凄いことには変わりない。)

親子間の殺人とか、鬱で会社や学校にいけなくなる人が増えているとか、不妊治療ー子どもが欲しいのに出来なくて医療の介入を受けている人が増えている、というのを聞くと、
以前はあたりまえだったことを手に入れたり、心静かに人生を送ることは、より困難になってきているのだなぁ、と感じる。

自分しか創れない、自分の人生をアートのように紡ぎだいしていく手伝いをする前に、
それ以前の段階、自分の土台を作っていくサポートが出来る専門家が必要とされているのかもしれない。
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by totoatsuko | 2007-08-16 22:37 | Comments(1)

あつくて。。。

d0065558_16111712.jpg最後に日本の夏(6月中旬ー9月頭)を通しで過ごすのは1999年以来になる。
かなり辛い。
歌舞伎や文楽の演目を通しでみると、話の全体像がみれて登場人物に対する見方も随分深まるのと同じで、久々の夏の通しは、日本の四季のいいところだけじゃないのを痛感。
こんなに湿度が高くて汗が頭からたれてくる気候をあたりまえ、夏とはそういうものだ、と受け止めて私は育ったんだ (すごい)、と思う。

他のチョイス(他にどんな夏があるか)知らなかったから、今みたいに、
気温は高くてもカラッとしているから日陰に入ればひんやりしている夏や、
気温すら大して上がらない夏や、
街自体が外を歩かなくてもいいような構造に作られている所(冷房が強力にきいたビルを伝っていけば、主要なところに行ける)

などを思い起こして、そのギャップにますますぐったりする、ということがなかった。

自分が知っているチョイスを実際選び、その地に避暑にいければ、チョイスを持っていることのメリットを生かせるが、日本に根をおろしている今はそういうこともままならず。

チョイスを持っていても、それを選べない、という状況はある意味とても辛い事だ。
暑さ&避暑 というテーマに限らず。

とはいえ、お盆がすぎれば、くらげも出てきて海水浴の時期も終わり。
そして、あっという間に9月。

私の夏休みは9/1 ~ 9/8です。
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by totoatsuko | 2007-08-16 11:42 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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