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無菌状態、、、続

子供をコントロールされた有菌環境にさらしてみる、という事を提案してながら、
保護者なるものが無菌状態で育てられていたら・菌に対して・困難な状況に対して免疫がなかったら、、、
悲しみや怒りを感じることを徹底的に避けて生きてきたなら
とてもじゃないけど子供を危険な目にあわせるのを見てみぬ振りはできないだろう、
また、どれだけやったら致死量になってしまうかも分からないだろう、と思う。

叩かれたことがない子供がいじめでクラスメイトを殴って殺してしまい「死ぬとは思わなかった」というのと同じ。自分が死ぬ思いをしたことがあるなら、そのギリギリがどういうものか分かっているから手加減できる・調整できる。


ここでいう保護者はセラピストにも当てはまる。
音楽療法の即興を使ったセッションでは、即興という何でもやっていい(何もやらない、というチョイスさえある)環境で、クライアントが一番必要としているプロセスを起こすことが出来るような 有菌・無菌環境をセラピストは細心の注意を払って作っていっている。いってみれば、有る程度コントロールされた環境。

また自分の心と向かい合ったことがない・自分の心の深さ・怖さ・不可思議さと対峙したことがないセラピストには、クライアントがそれらと向かい合うためのサポートなど出来るはずがないのだ。
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by totoatsuko | 2007-06-27 21:29 | Comments(0)

無菌状態

親は子供の第一保護者であるというのは多くの人の間で共通の認識であるけれど、「保護」のしかたも色々ある。

どれだけ子供に障害を乗り越えなくてはならない状況に向かい合わすか、その時どれくらい手助けをするのか?

なるべく子供が辛い思いをしないよう、笑顔あふれるよう、嫌なことを「保護者」がなるべく取り除いてやることが保護者の役割だとは思わない。だって、子供は自分の足で歩き、成長するにつれてどんどん「一人で」歩いていく範囲を広げていくのだから。自分ひとりの時に、初めて困難な状況に遭遇させることほど酷いことはない。無菌状態で育っていたら、ちょっとした菌にでもやられてしまうだろう。

風邪くらいひいたっていいではないですか、菌を飲み込んで病気になってもいいじゃない、びしょびしょになって外の水で遊んだ結果。現代には最新の医療がある。 水の楽しさ怖さ、手触り・感触を大人のように理性で捕らえるのではなく、言語化できない自らの感覚で感じられるというのは、本当に貴重な体験だ。

ちょっとしたやけどならいいではないですか、台所で遊んだ結果。大地や海の生産物が、現代の利器・包丁と火で形を変えていく様、その変化の過程でただよってくるにおいを間近で観察したり、実際手で触れてみることができるのなら。子供にとっては、それはそれは マジカルな変容で大きな驚きと喜びを体験できる。

保護とは、無菌状態にすることではない。
むしろ、その子が生きている環境を、間口の広さや温度や湿度を調整してあげて、死に至らないよう菌のコントロールをしてやることだと思う。それは、密閉して無菌状態にするよりはるかに難しい。なぜなら常に子供の動きを見てコミュニケーションを蜜とらなくてはならない。その子の気分や体力によって常に変化する、いってみれば「適量」「致死量」はどれくらいなのか、瞬間瞬間で判断しなくてはならないから。

大人になってはじめて はしか にかかると死んでしまうこともあるのと同じ。
人間関係や生きることそのものをサバイブする術、そこに起こる怒り、悲しみ、絶望、やるせなさと喜びと慈しみを 子供特有の頭ではなく「本能」で体験していれば、それは、将来生きていく上で大きな糧となる。頭で考えてどうにかしようとしてどうにもならなくなったとき、ふと子供の頃体で覚えた身のこなしが解決の糸口を導いてくれるかもしれない。

これは、自分と自分の関係にも言えることかもしれない。自分をどれだけ困難にさらしてでも何かをやろうとするか、そもそも 初めから避けるか。
自分を自分自身で無菌室にとじこめて生きるのも、菌だらけのところで生きるのも、どちらも 一人の人間の生き様だ。
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by totoatsuko | 2007-06-27 09:35 | Comments(0)

わたし でなくなる瞬間

期待に応えたい
一般的にはそうあるべき
そうしないとしけない、と言わた時
そういう風にみられたい、と思っているとき

私にはできません、と言えないがゆえに
~それは、相手や社会に対して・あるいは自分に対しての見栄のせいだったり
自分の弱さを認められない自分自身のせいだったり、
麻薬やお酒のせいだったり

人は 自分らしくない行動をとってしまう。
自分でない自分が何かを起こしてしまう。
自分らしくないものを積み重ねて 「自分の人生」を作っていくのは、こわいことだ。
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by totoatsuko | 2007-06-26 22:17 | Comments(0)

一線をこえる

免許の書き換えに行った際みた教育ビデオ。
とても幸福な人生が一瞬の事故で台無しになる、という点は共通しているけれど、過去のわざとらしい筋立てや演技とは異なり、自分にも起こるかもしれない、と思いながら見れるものだった。

主人公の酒酔い運転でひき逃げ、子供一人を死亡、もう一人に重い後遺症を残させてしまった30代の男性は、昨年独立し自分の会社を初め、ローンを組んで自分の家も建てた、2人の子供と奥さんのいる家庭もち。仲間と飲んで泥酔しているところに、大事な顧客からすぐ来て欲しいとの仕事の依頼。仲間が止めるにも関わらず、大事な客だから、と振り切り飲酒運転。
事故の数日後出頭し、多額の賠償金と数年間の実刑判決。主婦だった奥さんは、家を売って、昼夜働き生活費を稼ぎながら賠償金の返済をやっていたが、子供もぐれて、生きることに疲れ果てて電車へ飛び込み自殺。残された子供達は、奥さんの実家の田舎へ送られる、、、
というのが大まかなストーリー。

人間の判断って、とても危ういものだと思う。
どんな立派な人でも、どんなに自分を「コントロール」するのがうまい人でも、必ず不本意な過ちを犯す可能性はある。理性が働いている時は絶対にしないような判断を、個別の状況に遭遇し、即座に決断しなくてはならなかったら、普通では考えられないような判断をするからだ。飲酒運転がいけないのは誰でも「知っている」 。でも、急いでいたり、ほんのちょっとしか飲んでいなかったり、まぁいいじゃない、という人が横にいたりしたら、「自分」は簡単にゆらぐ。

その揺れを完全に消すことは絶対に出来ない。仮に消去したならば、それは人間でなく心をもたないロボットになってしまうことだ。消そうとする試みはバカらしい。大事なのは、自分が危うさ・コントロールすることが出来ない「人間の心」を持っている事を自覚することだと思う。そうすれば、自分のぐらつきを客観的に観察することにより、非常事態で自分の弱さを自分でカモフラージュしたりせずに、自分の迷いや弱さを第3者に開示し・助けをもとめ、より適切な判断を下すことができるだろうから。
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by totoatsuko | 2007-06-25 22:18 | Comments(0)

明け方の窓辺

3:50am-4:30amの新宿
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..................................................その移り変わりがとても静かで美しかった。
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by totoatsuko | 2007-06-23 04:43 | Comments(0)

1点モノ

d0065558_348453.jpgここ数週間、必要にかられて椅子を探している。そこで思ったのは、有名デザイナーがデザインし有名になったモノのよさと、1点もののよさについて。

例えば イサムノグチのバタフライツール(ちっちゃい腰掛椅子)。
ちょっとインテリアデザインに興味のある人なら誰でもしっているもの。多くのお店で取り扱っているので、「イサムノグチ」と連動しなくても、多くの人の脳裏の片隅に記憶されているはず。結果、バタフライツール をみると、見た人のバタフライツールに関する印象の記憶を喚起する。「イサムノグチ」というブランドや、それを収蔵している NYのMOMA(現在美術館)や、それを売っているハイエンドなお店の雰囲気などを(無意識のうちに)、見る人に思い起こさせる。ある一定のイメージや印象を持ってもらうことを期待できる。
これは、イサムノグチのものだから、いいものなハズ、オシャレ、選んだひとはデザインコンシャスに違いない、などの感覚を期待できるし、「これいいなぁ~」という感覚を選び手と見る人が共有しやすい。

これは、人に例えれば 学歴とか、就職してる会社とか。より人に知られているものとリンクしていると、「~大学」だから頭いいんだろうな、とか「~デザイン学校の~教授についていたのなら、~系のデザインが出来るはず」とか、外資系の機関に勤めている人はカッコよくみえたり。大衆によく出回っているものにリンクしているものは、大衆が雑誌やニュース、イベントなど様々なシーンでその言葉を「経験」して、個々人の中で「イメージ・印象」なるものが形成される。そして、大衆心理の中で作成されるイメージは、売り手のブランドイメージ戦略に大きく影響されている。

大してよくないものでも、高級感を持って宣伝されれば、そういうイメージを持つようになる。
たとえば バックのブランド コーチ。日本では数ある高級ブランドの中では、中の中位に位置している感じだけれど、NYでは乱積みにされて無造作に売られていた。


かたや、一点ものは、ブランドイメージなどを背負いにくい。ブランドイメージを見方につけて、自分を売る・アピールすることができない。
もちろん、作家ものの1点もの、と説明されれば、その作家の名前がブランドとして1点ものの作品にイメージが付随してくる。今回 椅子を探していておもったのは、1点もののアンティークなどは裸で勝負してるということ。作家が誰だかわかりません、誰も私の個性を宣伝してはくれません、でも、私はここにいます、もしこんな私を好きと思うならご自由に、という感じ。ブランドものを「いい」と思わなかったら「いいものを理解できない人、と思われるんじゃないか(イイものが分からない人とは思われたくない)」という大衆心理が働くけれど、1点ものに対峙したとき、そういうものは存在しない。「自分」が好きか嫌いか、「自分」がいいと思うか思わないか、それだけ。
私にとっては、ブランドを背負っていないにもかかわらず、見たとき・触れた時 心に波紋を起こす可能性がある1点ものを見つけたときの喜びは大きい。ブランドものはどこでも見れるけれど、1点ものは 出会いそのもの。探していないと目に留まらなかったかもしれないし、1分おそかったら、他の人の手に渡っていたかもしれないのだ。

人間もまた同じ。
裸一徹で生きていくのは、効率が悪いし、人々の理解も得るのに時間がかかる。大きな会社に勤めていれば、その会社を通して人間関係を広げやすいし、こちらからも探しやすいし連絡もとりやすい。「~会社の~さん」(あるいは名前まで分かっていなくても)だけで、ネット検索したり人に尋ねたら、リーチできる。でも、その人が名刺ももたず、何にも所属していなかったら、再度その人を見つけ出すのは難しい。

でも、ブランドイメージにとらわれない自由がある。ブランドや肩書きに頼らず存在しているものには、それ自体に人をひきつける何かを内蔵している。それが放つオーラは、大衆には届かない。そのオーラを嗅ぎつけられるモノだけに届く力強く特殊な魅力。

大衆ブランドと1点もの。
自分の琴線にふれる椅子探しを通じて、それぞれの椅子のさまざまな個性、人生、生き方(製造から廃棄されるまでの道のり)が、人と重なっていった。


余談ですが、音楽療法士も同じ。
~大学で勉強しましたとか、~で実践しています、~で教えています、とあれば、「いい」療法士さんに違いない、と思えてしまう。まぁ、それは本当かもしれないし、そうでないかもしれないです。ブランドがバックにつくということは、それだけ実績があるからかもしれないし、たまたまかもしれない。ブランドがバックにない療法士でもいい仕事をしている人は沢山いますから。そういう意味では、自分に合う療法士さんを探す・見つけるのって「探した経験」がない人にはとても難しいものだと思います。

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by totoatsuko | 2007-06-23 04:42 | Comments(0)

所有 or 傍観

d0065558_51158.jpg私にとって本当に好きで好きで、なおかつ自分の手に入れたい(例えば、購入という手段で、例えば借用という形で)モノに出会うことは稀にしかない。例えば、お店、洋服やインテリアグッズ、アートワーク、そして人。しかも好きだと思うのと、それを自分のモノにしたいかどうかは また別の話。

自分の好きなものとの関わり方は人それぞれ、多種多様。
所有して、そのものが放つオーラを常に感じつつ、そのメンテナンスにも責任をもつのか、
いつもいつもそれに触れたり、眺めたりすることはできないが、そのメンテナンスという雑用もしなくていい。

例えば、絵画によっては個人に所有されて個人宅にぽつねんと 仰々しい保護をうけながら、主にその家の者だけと触れ合っているよりは、広い空間をもつ美術館にさりげなく、シリーズものの一部としてコンセプトのある展示の仕方をされ、より多くの人の心に何かを訴えかける方が、その絵の価値を生かせる場合だってある。

大好き!と思う人との関係も、恋人にするのか、友達にするのか、家族のような関係にするのか、いろんなかかわり方がある。

自分自身との関係だって同じ。いろんなパーソナリティーや役割をもつ自分に対して、いつも批判的であるのか、いつも支配的であるのか、それぞれが対等であるのか。多くの場合自分のShadow=影の部分(自分が好きでない側面、認めたくない側面)は、あたかもそんな側面を持っているとは他人に気づかれないように、理性で支配し心の奥底に押し込め隠す。でも、そこに、自分では認めたくない側面の自分からすこし距離をおいて「傍観」し、その存在を自分の遑しい所有物としてみることをやめると、自分自身のありかたが随分変わってくるはずだ。

認めたくないShadowの部分をコントロールすることをやめることはとても怖いことだけど、もしShadow自身に少しの自由を与える余裕と強さが出来たなら、shadowは新たなムーヴメントを自分の中で巻き起こし、心のダイナミックスを変えていくだろうし、結果的に人生観や生き方も変わっていく。

自分は自分の人生の所有者でもあり、そうでないともいえる。
そのどちらの感覚を自由に行き来し、楽しむことが出来るなら、もうすこし人生が、人付き合いが楽になるかもしれない。
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by totoatsuko | 2007-06-20 22:11 | Comments(0)

時代遅れとは?

d0065558_17262015.jpg引き続き Skin & Bones exhibisionからinspireされたこと。

デザインされたもの、というのはそれがデザインされた時、旬の時期を終えると、人々の話題にも登らないし、目にとまることもなくなっていく。周りに同じようなデザインのものが増えれば、周りと同化し主張が薄れてくる。

例えば (デザインとは性質が異なるが)蓄音機が発明された時は、衝撃だったが、いまとなっては録音機、というごくごく当たり前の日常の要素の一つにすぎない。

デザインに話をもどそう。
展示された洋服や建物をみて、「時代遅れ」という感覚は何なのだろう、と思う。
デザインされたてのものは、その時代と文化背景・人々の大衆心理が織り込まれて、それを見た人の心や視覚にダイレクトにビビットに音をひびかせる。反響音も共鳴も起こす。しかし、時がたつとその存在意味が変わってくる。

例えば、18世紀のコルセット付ドレスやフリルのブラウスにタキシードというスタイルと、当時の労働者が着ていたものを融合させて「今」デザインされた服。当時あった貧富の差・ライフスタイルの差異が、やはりお金持ちとそうで無い人の比が取りざたされている現代社会では、実際どの様な形で存在するのか知った上で、それを体現するデザインされた「服」。例えば、袖や胸元にはプリーツがふんだんに入っており、肩はパフスリーブ。しかし、色は農民がきていたようなくすんだもの・あえて汚れがついたようなプリントを施す。

そういう社会問題を(無意識であれ)感じている人がそのデザインを見たら「旬」感覚を感じる。しかし、次のシーズン・翌年にみると、全く違う主張をしているようにみえたり、時代遅れ~なにかそぐわない感じを受ける。

どうしてだろう?そう自問して思いついたのは、
言語と同じで、そのデザインされたものが使っている言語が理解できなくなったら、そのデザインが主張していることに共感を覚えられない。それが何時どんな時代にどういう人によってデザインされたのか、というのを知らなければ、何故そのようなデザイン・フォルムが生まれたのか理解できないだろう。デザインが生まれた環境と異なる環境に生きていたら、もうそれだけでそのデザインが生息する世界から離れた、異なる言語や社会システムを持つ国にいるような感じ。ましてや、そういう「時代遅れ」の服をまとおうものなら、街から浮いて、如何わしい目で見られかねない。

あるいは、一昔デザインされたものが「旬」のものとして、再評価される現象もある。それは、デザインされた時代と、再注目する時代には、きっと共通の何かがグループの無意識に生まれてきているからなのだ。

いまや時代の変化はどんどん早くなっている、とはいわれながらも、自分達の「生きる感覚」がそこまで早く変化していると実感している人は少ないかもしれない。しかし、そうやってデザインされたものとの会話を試みて失敗したとき、私は、その変化のスピードとダイナミックスを感じざるを得なかった。

時代遅れな人、物、価値観 と見切ってしまえば、それまで。
そこに何も対話は生まれない。
しかし、その物や人が製造・形成された時代と社会背景、それが発する言語を理解する努力をすれば、少なくともそれらが何故、何を言わんとしているか理解する手がかりはつかめるだろう。(それに共感できるかどうかは、全く別のお話ですが)。
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by totoatsuko | 2007-06-14 11:49 | Comments(3)

新国立美術館・スキン&ボーンズ

d0065558_17264253.jpg新国立美術館のスキン&ボーンズ展は大変おもしろかった。

近年、建築物と洋服のデザインがお互い影響しはじめ、例えば建物でプリーツ(ひだひだ)を作ったり、シースルーにしてみたり。建築物と洋服、一見素材も役割もかけ離れているようで、両者がその共通点を見つけ進化していっている。

いってみれば、洋服は人間 個体の皮膚の上の皮(スキン)であり、建物はその建物に入っていく人間達の集合体としてのスキンといえる。何気なく毎朝・あるいは出かける先によって選んでいる、あるいは購入している洋服は、意識の上では特に考えていなくても、その人のその時の状態や主張が反映されているのだ。それは、どんな服を選んでいても言えること。ただ、この展示を見て、建築物を利用すること・選ぶこと・洋服をまとうことで、わたし達はこんなにも多くのこと(無意識であっても)語っているのだ、そして、語れるものだと気付かされて、とても衝撃的だった。

例えば、何も考えず特に特徴も主張も無いデザイン・色のシャツを選んだ日・人。集団の中に同化したいのかもしれないし、何も主張やスタイルを持っていないかもしれない。あるいは、強烈な意志やみなぎるエネルギーを無意識に感じている時、あえてDullなものを表皮(=自分を覆うもの)として選ぶことにより、自分の中のトゲトゲした、あるいはフツフツしているものと、環境・社会・人間関係の間にクッションとして機能させようとしているのかもしれない。

建築もしかり。その建物・建物が建っている土地を店舗として・住居として選ぶ人たちのアイデンティティーが、その建築物によって代表される。シャイニーでフラッシングな建物と平屋で年代物の建物(集合体の表皮)を選ぶ会社や人は、本質的に違うアイデンティティーを建物の外のものに対して表明しているといえるだろう。


特に哲学を持たずデザインされる「服」や「建物」ですら、デザイナーの無意識が反映されているのだから、この展示でみた、考え抜いてデザインされた建物や洋服。ディテール、素材、カットその存在だけで、何かを雄弁に主張してる。
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by totoatsuko | 2007-06-13 10:02 | Comments(0)

誕生日祝い

d0065558_1727784.jpg今月は子供の誕生日があるのだけど、
それを聞いた人が、そっくり同じように「お誕生日プレゼントは何を買ってあげるの?」と言うので、「誕生日だから何か買い与える」つもりが全くなかった私には、衝撃だった。あぁそうか、世の中の多くの人は、誕生日を祝うのに、何か買い物をするんだ、と気付く。

それでもなお、何か買ってあげようとは思わない。
彼の誕生を思いながら、特別なお祝いゴハンをいつもより少し時間をかけて作り、
誕生日ボーイを家族や友人と囲んで彼の誕生を祝う、彼を中心にしたお喋りをする、
その特別な時間が小さい子供にとっては・そして祝う側にとっても何よりのメモリアルになるのではないだろうか?
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by totoatsuko | 2007-06-10 23:26 | Comments(2)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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