カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

totoatsuko.exblog.jp ブログトップ

<   2007年 05月 ( 9 )   > この月の画像一覧

ペルソナ:仮面と同化する危険性

d0065558_21583372.jpg「ペルソナ」は、「仮面」と訳される。
仮面とは、わたし達が生きている上でその場に応じて着替え、作り上げ、廃棄するものである。今日は、それをもっと自分主体で選び、自由自在にとったりつけたりしてみないか、という提案。

例えば、会社員という仮面。母親・父親、長男、末っ子、社長、音楽家、政治家、医者。
医者は白衣をまとうことにより、患者を安心させることも服従させやすくも出来る。
ペルソナは、生きていく上で学び取った智恵を使って獲得した、自分の都合の良いもの、必要な物であったり、おかれた状況によって向こうから自分の顔に張り付いてくるものもある。

大事なのは、ペルソナは自分の表皮・表層に過ぎない事を忘れないことだ。
それぞれのペルソナの役割を演じているが、自分が望めばいつでもその仮面をとり、自分自身に戻れること。もし、ペルソナが自分自身だと信じこんでしまったら、自分自身の心は、24時間365日覆い続けている仮面によって窒息させられるだろう。ペルソナをつけていると、環境や人と実在的な心の通う関係を作ることはできない。あくまでも、例えば 夫ー妻、親ー子、社長ー社員 という域をこえられず 人間ー人間 という関係が築けないのだ。

例えば、とても尊敬され、慕われる先生 という仮面を持っているとしよう。
とても魅力的な仮面は四六時中つけていたいものである。
いつも人に求められ、評価され、経済的な見返りも高い。一方で常に人から魅力的に見えるよう、有能であると感じられるよう、高い報酬の契約を取れるよう、気を張っていなくてはならない。自分の信奉者が求めない・認めない姿には戻れない =例えば、鼻くそをほじくるにも誰かに見られていはしないかとビクビクしなくてはならないし、例えばだらしのない格好をしたり、ハメをはずすことも自分に許せない。その仮面をつける必要のない場所、例えば家族や友人の前、自分一人の時でさえはずせなくなっては、息苦しくてしかたがない。仮面をはずせば、ごくごく小さな、なんの変哲もない、特にスペシャルでもない人になれるのに、自分がスペシャルでなくなることが怖くなり、息抜きできる自分に戻ることができない - そして心と体が不調を訴え始める・神経症的になる。

何らかのペルソナを身に着けそれらしく振舞うためには、観客が必要で、
もし、自分がその観客になったことが無ければ、そのペルソナはすでにペルソナではなく、ただの呪縛である。

白衣を来て医者の顔をしていても、患者がいなければ医者として機能しない。

鳥の群れのカリスマティックなリーダーであっても、その群れ全体をつくる何千羽の個性のない一羽 一羽が存在しなければ、リーダーとして存在できないのである。そして、遠くから見れば、そのスペシャルな存在であるリーダーも、鳥の群れの一部としか認識されないのである。それでも、群れのリーダーであることにかわりはない反面、仮に自分がリーダーをやめても、群れは存在する。あなたがいなければ代わりのリーダーはいつでも現れるから、現役のリーダーとして群れの存続に責任を感じる必要は無い。(ただし、群れの性質は変わるだろう) だから恐れる必要はない、ペルソナを剥ぎ取る事を、他のものに付け替えることを。仮面をはいだ時、視野がひろがり、息が抜け、思い切り空気が吸える。

怖いかもしれない、仮面をはいだら自分の生きている環境の秩序が崩壊するかもしれない、と。母親業を放棄(母という仮面をとったら)したら?よい子供である振りをやめたら?モーレツサラリーマンであることをやめたら?品位公正な人物であることをやめたら?

大丈夫、それでも世界はまわりつづける。
それまでとは同じではないだろう。しかし、あなたが仮面を脱ぐことで、あなたの声色がかわり、装いも、顔つきも変わる。それらが、あなたの住む世界をよい方向に導くかもしれない。



音楽とアートを使う心理カウンセリング Guided Imagery and Music (GIM) session についてはコチラ

アメリカ発 幼児のための音楽教育 Music together @ 代々木上原クラス 無料体験 受付中。
マクロビおやつ付き。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-25 12:29 | Comments(2)

オウトマティック

d0065558_22231430.jpg子供 といえばオレンジジュース を頼んでおきましたから、といわれる。
TVを見るのが大好きだという前提で話が進められる。

わたし達の言動は、オウトマティックに、つまり いちいち立ち止まって考えたり吟味されずに発動されるものがほとんどだ。それは、まるで自動ドアの前にたつと、自動的に扉が開くのと同じ。

そういう機能は、余計なエネルギーを費やさず効率よく生きるのに不可欠なスキルだ。
考えなくても手が動く、話が出来る、意思決定を下せると、時間短縮になるし、まわりのテンポにもついていける。

おそろしいのは、それが100%になってしまうこと。
心をとおさず、まるで皮膚から跳ね返るようにポンポンと物事を処理し、人と関わる。
それは、どんどん自分の核と環境の隔たりや繋がりを深めていくし、
例えれば、自分の核の部分を守る身や脂肪分でさえ、自分の中心から分離してしまう。


どうして、子供=飲み物はジュース と反応する大人が多いのだろう?
どうして、人とであった時、とりあえず笑顔をのっけてる人が多いのだろう?

人生を 自動操縦に切り替えてしまったら、自分らしさも -しいては人間らしさも、本当の楽しみも、なにもかも味気なくなってしまう。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-23 16:25 | Comments(0)

キャパシティーの限界 2

大人のカジュアルな集まりに子供を連れて行ったら、
「(お子さんの)食べ物を色々制限されているんですか?」と ある人に言われた。

私は、「制限」してるつもりがないので この問いかけを聞いた時 ??? だったのだけど、
どうやら、ジュースをあげようとした人や、ビールのつまみのスナックを子供に渡そうとした人に、
「(それ)あげないでください。お茶 ってありますか?」
「え~、なんで?なんかあるの?」
「いや、妻がうるさいんで」

という前振りがあったらしい。
それを知って私が答えた言葉は、「制限っていうか、、、余計なものをあげてないだけです。あたりまえの物だけ。」

生命として誕生して数年も経っていない体に、添加物いっぱいの食べ物を「わざわざ勧める」必然性を全く感じない。勧めなければ、目の前に差し出さなければ、子供は積極的にそういう物を体内に取り込まない。

ジュースがなくとも、喉はうるおう。おいしいお茶は、美味しいと思い喜びを感られる。ジュースを食事の時に与えない(断る)ことで、かわいそうな事をしているなんて、みじんも思わない。食事の時に「あえて」ジュースを飲ませる必然性を感じない。むしろ、自分のライフスタイルに合わないことを勧められたとき「断ってもいい」という事、自分を守るお手本の一つを示している、と思っている。また、人と違ってもいいのだということ、これは本当に自分に必要なのか、ただ流されているだけなのか、そういう事に敏感になり瞬時に本能的に判断できる習慣作りの手伝いをしているつもり。

ジュースを飲むことが、お菓子やジャンキーな物を食べることが絶対悪、とはちっとも思わない。そういう物が食べたい気分の時は、そういう物を食べているんだ、と自覚していればいいこと。
ただ、小さな子供は、たとえが悪いけれど犬と同じようなところがあって、ちゃんと全体を見て判断することが出来ないから、そういうときは、本人に代わって親が判断してあげないと。品質表示は読めないし、それがどういう食べ物か(辛いのか、甘いのか、熱いのか酸っぱいのか)というのも知る手段をあまり持たない。
その子の中で、何が必要で、何がいらないものか、どうしたいのか、したくないのか、その子自身の価値感の基盤を作るのを手伝ってやれば、将来そこからどう発展しようと本人の勝手だと思う。

何でもかんでも、その雰囲気や流れにのって、わけの分からないものを取り入れていたら、自分のキャパシティーは簡単に超え、自分自身をこわしてしまう。キャパシティーの限界を超え飽和状態になり 心も体もむくんでしまっても むくみから来る不快感を無意識のうちに感じないようにして、平然と生きている人が沢山いる。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-22 10:06 | Comments(0)

キャパシティーの限界

NYのワールドトレードセンターが崩壊した時、
飛行機がビルに突入するシーン、ビルが崩れ落ちるシーンが何度もTVで繰り返し放送された。数週間、様々な番組が変更されて、テロ関連のニュースが伝えられた。
そのおかげで、TV見ていた大人だけではなく子供まで、トラウマタイズされてしまている、という記事が当時あった。悪夢にうなされたり、情緒不安定になったり。

アメリカに短期留学した日本人が、一気に10kg太って帰ってきた、という話も珍しくない。
ホームステイ先で出される甘くて脂っこいものを、「これ以上食べられません」と言えず食べたり、外で買って食べるにしても、同じハンバーガーでも、ケーキでも一人分のサイズとカロリーが日本に比べて相当多いから、気がつかないうちに、自分が必要としている量をはるかに超えて摂取してしまう。 その結果、体が重くなったり、体調を崩してしまう。


巷にはモノがあふれ、情報も氾濫している。
モノを選べなかった時代の人にとっては、欲しいものを手に入れるために相当の時間と努力なしに、豊富な情報源から「選べる」ようになったことは喜ばしいことだろう。

でも、今 自分に必要な物を選べない、不必要なものは積極的に「選ばない」「排除する」ことが出来ない人が多いのではないだろうか?

ワールドトレードセンターの件を例にとってみれば、
TVの電源を切れば そこまでひどく映像によってショックを受け続けることはなかったはずだ。
みんながつけっぱなしにしているTVを切るには、勇気がいるかもしれない。皆の話題についていけないかもしれない、新しい重要な情報を聞き逃してしまうかもしれない、そういう恐れがあるのかもしれない。でも、本当に大事な情報なら、TVから流れるノイズを垂れ流しにしなくても何らかの形で入ってくるものなのだ。現に、私は当時ワールドトレードセンターから数ブロックの所にすんでいたので、3週間家に帰ることが出来ず、TVもほとんど見なかった。しかし、次々と新しい動きが起こっていた渦中のNYで、TVからの情報を逐一耳にいれなくても、何ら困ったことにはならなかった。


もう一つ例にとってみれば、
食べ物。昔に比べて、かまぼこ一つ、お米ひとつ、パン一つとっても選択肢はたっくさんあるだろう。だが、食からの恩恵がそれに比例して豊かになっているとは思えない。ご飯とお味噌汁を囲んで、豊かな会話が生まれていれば、そこに高価な輸入品や加工品がなくても、心とお腹の満足度は非常に高い。
現在は「食育」の意識を高めよう、とわざわざ政府レベルでキャンペーンを張っている。昔では、あたりまえだった事が、うまく機能しなくなっている。
自分の体に必要な量と内容を選べない、いらないものを排除・拒否できなければ、肥満・痩せすぎで、体調を壊してしまう。

モノが少ない=質素 とか、貧しい、とかネガティブなイメージがあるけれど、
「選べない」「自分のキャパシティーを知らない」のなら、むしろ、お店や書籍・ネット・人間関係などで提供される情報量は少ないに越したことはないのではないのだろうか?
そんなことを ふと思った、天気のよい午後でした。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-21 16:24 | Comments(1)

projection & countertransference

d0065558_2143282.jpg今日は 前回の投稿へやや専門的な補足説明。

自分の身の回りに起こっている事に似た体験をしているように見えるクライアントと接すると、projection やcountertransference - 自分自身や自分が強い感情を持っている誰かをクライアントやクライアントが話す人物や物に無意識のうちに投影したり、感情を重ねあわせる、を起こしてしまう可能性が高くなる。

つまり、自分の感情がわー、っと出てきて それに妨げられて、プロフェッショナル ~クライアントの心が必要とするサポートをする専門家 としての機能が低下してしまうどころか、誤った判断・介入・クライアントのアセスメントをしてしまう危険性がある。

だからといって、自然と沸き起こるprojection や countertransferenceを排除したり曲げたりすることは出来ない。その試みはばかばかしい。しかし、極力 無意識下で起こるそれらの感情の揺らめき・衝撃を察知することにawareであろうとすることにより、クライアントのセラピストに対するprojectionやcountertransferenceにもより敏感になることができる。


例えば、自分のエネルギーが 喪失による深い悲しみを感じている時に、同じように誰かを失ったひとがクライアントとして現れたとき、セラピストはとても注意深くなるべきである。もし、自分の悲しみがクライアントが持ち込むそれに刺激されすぎて、自分の悲しみに溺れてしまうかもしれない、と少しでも感じたら、そのクライアントとセッションを始めることは丁寧に断るべきだろう。そんなことではセラピストとして十分に機能できないから。

しかし、もしセラピスト自身が、喪失の悲しみをきちんとプロセスした後ならば、その個人的な喪失体験を利用して、より近くクライアントの喪失体験に、クライアントと共に溺れてしまうことなく、自信を持ってよりそえる。言い換えれば、知り尽くした海での遊泳の補佐はできるが、知らない海にセラピストとして入るのは無責任・かつ危険極まりない。クライアントがその海を知っていく過程で、嵐が起こるかもしれない、日照りが続くかもしれない、またどこかに大事なものが隠されている洞窟があるかもしれない。そういう時に、必要なら日陰の場所を教えてあげれること、クライアント自身が洞窟を見つけるのを辛抱強く・クライアントの体力をみて無理をさせすぎず 待つこと。そして、知っているはずの海も、まったく知らない表情を見せる可能性があることを見にしみて自覚していることにより、予想できない状況に備えることができる。何処までも待ち続けられる、どんな荒波にも、どんな予想外の展開にも、自分だけでなくクライアントを守り、時には浮き輪代わりになりながらその状況を切り抜くことができる勇気と体力が、セラピストには必要とされる。

無意識で起こっていることは計り知れない。
それに加えて、セラピストは不完全な人間で、何か大きな力の前では無力である。

しかし、Projection と Countertransference、手ごわい感情だけれども、うまくそれと付き合うことでより鋭い感性を持つ強いセラピストであれると思う。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-16 21:41 | Comments(0)

つながり

d0065558_2247955.jpg身の回りに起こることは 何か意味があったり、繋がっていると信じている。その時は なにがなんだか分からなくても、随分後になって全体像が見えてハッとすることも。音楽心理療法でも、そういう発見が起こり、人生や世界の見方を変えてしまうことがあるけれど。。。

身の回りの出来事が、私のパーソナル&プロフェッショナルライフと連動するのは、とても興味深い。自分自身が初めて子供を身ごもったとたん、子供にまつわるissueをもつ人や、子供のクライアントからの問い合わせが、瞬間的にぐん と増え、不思議だった。

最近では、何冊か本をネットで注文したら、1冊まちがって届いた本があった。それは、何故かNY育ちの作家で家族がテーマのものを多く書いたニール・サイモンの物。
息子の人生初の反抗期に対応しようと新たな関係を息子と構築する試みは以外にも体力・精神力を消耗し、夫や下の息子との関係に身がおけない自分の状態をどうしたものか、と思っていた矢先の、間違って届いた本。NYに住む友人からの近況報告が久しぶりに入ったり、友人がNYへ住むことになったという知らせをうけて、過去4年間のNYでの生活を思い浮かべたりもしていた。

また、注文した中の一冊・色関係の本の著者は、読んでみればグリーフカウンセリングを主にやっていた人であることに気付く。グリーフ(喪失からの回復)が主題の本が届く前後に、親しい人の訃報や、大事な人を亡くした人々からの問い合わせも。

下手なセラピストだと、パーソナルライフで体験している事・個人的な感情を、同時進行形で自分と共通の感情を体験をしているクライアントに無意識のうちに投影してしまい、自分のニーズをセッションの中で出してしまったり、クライアントのニーズを見過ごしてしまう危険性が高まる。しかし、自分に起こっていることが何なにかきちんと把握した上で、プロフェッショナルな身の上に回ってくるクライアントと向かい合えば、プロフェッショナルとしての学びも多いし、本能的な洞察力も敏感になり、大いなるサポートを発揮できると経験から感じている。

様々な日常の現象の繋がり、何度気付いても、私はとても不思議な気持ちになり、「偶然性」の不可思議に感嘆する。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-15 22:55 | Comments(0)

投薬

d0065558_1411221.jpgCNNのアメリカで子供への精神安定剤などの投薬が問題になっている、という記事を読んだ。これらの薬を子供に処方するのは、3,4年前は極めてまれだったらしいのだが、最近は製薬会社から医師にリサーチ名目の補助金が配られている。医師達は補助金と処方の割合の増加は関係ないと言っているが、数字上では、補助金を沢山貰っている医師ほど、子供にもそれらの薬を処方しているようだ。

問題になっているのは、薬の副作用。
摂食障害の少女に、食欲が増加する副作用がある「多重人格を治療する薬」 を処方したところ、少女の食欲は通常レベルにもどったが、背中にしこりができ、まともに歩けなくなってしまったケース。

癇癪もちの男の子・床を転げまわって抵抗したり、じっと椅子に座っていられないこの子に精神安定剤を与えると、みんなと一緒に静かに輪になって座り、与えられたアクティビティーに参加し、みんなと一緒に読み書きの学習をすることも出来る様になったが、極端に表情がなくなった。この薬の副作用の頭痛が夕方になるとあらわれ、この子は以前のように体中で悲しみを表すことはなく、じーっとその痛みに耐える姿をみせるようになった。


薬だけで心を操作する試みは怖い。
勿論、薬だってとても有効な手段だ。改善したい症状があって、それを瞬時になくしてくれるものがあるなら、藁にすがる思いで飛びつく気持ちもよく分かる。
でも、その子のいわゆる「問題行動」が、心のどんなわだかまりと繋がっているのか、という視点を持たず、生理的な視点だけで心と身体症状と行動を切り離して対処していると、とんでもないことになってしまう。人間の心と体と魂は密接に繋がっているのだから、人間は 物体ではないのだから。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-11 14:08 | Comments(0)

幼児教育

d0065558_15203936.jpg子供をもってから、子供関連の見出しがよく目につくようになった。
今日もチラシに、私立幼稚園合格率No.1がうたい文句の塾が入っていた。

子供って、凄く柔らかいスポンジかゴムのようだと思う。
そういう塾に行って、色んなインプットをされると、短時間でたーーくさん吸収するだろうけど、家でそうじゃなかったら身に着かないーすぐ抜けていくし、今後の育つ環境で、インプットされたものは様々な形で消化されて、必ずしも一般的に「望ましい」とされるものをその子の一部として形成される保障は何もない。鉄のように熱いうちに徹底的に叩きこまないと曲がらないものは、いったん曲がったら元の形に勝手に戻ってしまうことはないのだが。

例えば、スラムで育つ子供がイギリスの貴族の子供が行く(=ジェントルマン教育が徹底している)学校にかよっても、イギリス貴族の様には育たないどころか、その子が属する社会では生きにくい態度を中途半端に身につけてしまい、近所の人たちにいじめられてしまうかもしれないし、貴族の教えと自分の社会の教えのギャップに悩まされるかもしれない。勿論、スラムでは学べない内容を、子供特有のクリエーティビティーで何かとんでもない発想を起こしたり、興味深い人生を作り上げる可能性も否定はしないが。

ただ、この学校に行ったからこの子が貴族の子供のようになることはない。特別な教育を受けることだけが、教育されたとおり生きることになるとも、子供の幸せを導くとも限らない。

アメリカでの研究によると、常にケアされて極力泣かないように育てられた0歳児と、アフリカなどで時には放置されて涙が枯れるまで(赤ちゃんはほとんど涙はでないが、これは例え)泣かされてた0歳児の数年後の情操に差異はないそうだ。ケアしたらした分いい結果が出るとは限らない。泣き叫ぶ赤ちゃんを放置するのは、かなり残虐な仕打ちのようだけど、実際はすくすくと育つのが事実らしい。

我が子をどの学校に入れるか、入れる工作が成功するか、というのは親にとって大問題だが
子供にとっては、世間に知られている学校や教育法を受けること自体ではなく、沢山思うように遊べて、学べて、発散できる場であることが、大事なのだと思う。

親の価値観は、親の価値観。今 世間でいいとされていることは、子供が大人になったとき評価される事とは限らない。また、世間がいい とすることが、その子の価値観・幸福観に当てはまるかどうかの保障もない。親が出来ることは、きっと 自分が幸せに感じる生き方を見つける、自分で自分の道を切り開いていくことが出来る体力作りを、まだスポンジのようにふにゃふにゃな時、子ども自身が自分の芯を作っていく過程を手伝ってやる事なのではないかと思う。

何らかの理由で、そういう成長の過程で踏むプロセスを逃し、自分の道を造っていく体力、幸福だと感じる感性に欠いている事、自分は何者なのか問うたことがない事にきづいた人が、セラピストと共に、大人に・しかも中年・初老になってやり直していく事もある。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-09 15:20 | Comments(0)

d0065558_14525092.jpgGuided Imagery and Music という音楽心理療法で深層心理を扱うとき、心や体の状態を色に反映させることがある。

具体的なイメージを描きたいと思うこともあれば、
手が選ぶ色をとり、なにも考えずに紙の上にクレヨンを滑らせてみる。

MARI カード という、色と形を組み合わせる方法をつかって、心の状態やブロックしているものを知っていく参考にすることもある。

選ばれたMARIカードをみて、クライアントの心の状態を私がGuessする助けになるが、本当の状態を最もよく知っているのは、クライアント本人。最も、本人が意識して気付いていないことは沢山あり、気付いていないがゆえに自分自身の不調や不安感などをどう扱っていいか分からなく感じることがある。

私は、色や形、音楽に関する「知識」と、クライアントと接する中で感じる自分の直感を使って、様々な仮説を直感的に自分でも意識しないストーリーを組み立て、それをもとに、直感的にクライアントに問いかけたり、音楽的にサポートしたり、音楽を選んだりして、クライアント自身が内面の紐解きをしていく、クライアント自身が 体調・心の状態の回復の糸口を見つけていく、回復に必要なエネルギーの源を見つける作業を促進する。

今、「日本の色」に興味を持ち始めている。
通常のプリンターでは印刷不可能な色。その色の名前を知っていくと、色の由来、その色が使われてきた歴史、場面など分かってきて面白い。アメリカ人が研究した色の意味合いを勉強しただけの私は、今後日本人相手に色を使っていく上で、この探求は大きなタスクの一つになりそうだ。クライアントを知識の枠に当てはめることは到底できない。知識は弊害にもなりうる。しかし、知っていれば役に立つことも多々ある。

近頃本屋でよく見るようになった、「マンダラの塗り絵で癒されよう」的なものとは比べ物にならないものすごいものが、セッションでの色使いでは起こっているから。
[PR]
by totoatsuko | 2007-05-09 14:53 | Comments(1)
line

音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite