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マヤ・インディアンの詩

d0065558_14231421.jpg防備録として ~4月26日(木)の日経 夕刊、小林 登氏、小児医学の第一人者へのインタビューから。

マヤ インディアンの詩
「お母さんは赤ちゃんを胸にしっかり抱きしめて、人間は信頼できる、世界は平和であることを教えなさい。お父さんは赤ちゃんを高い丘に連れて行き、高い高いをして、世界はいかに広いか、そしていかにすばらしいか教えなさい。」

そのためには、
母親自身が人間を自分自身を信頼し、
父親自身が世界はすばらしい、と心から信じていないと。
どんなに胸に抱いてやっても、高い高いをしてやっても、
赤ちゃんは信じていないものを伝えられている、と簡単に見抜くだろう。


小林氏いわく
「母親の行動は(ほんらい)なめらかな波であり、父親はぎざぎざした鋭い波といわれる。母親と父親はお互いに相補って赤ちゃんの心と体を育てていく」

過剰な役割をまかされストレスを抱えた母親が、どこまで滑らかな波をキープできるだろうか?仕事で疲れ家族といる時は虚勢されてしまっているような父親は、どれだけその鋭さを伝播できるだろうか?


人間を育て・育てられる「仕事」は、OnとOffがないアートワークのようだ。
人間を構成する全ての粒子がぶつかり合い、交じり合い、化学反応を起こし、分裂し、絶え間ない変化をとげていく。
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by totoatsuko | 2007-04-27 14:21 | Comments(2)

みんな「変な人」

d0065558_9405654.jpg自分と違うタイプの人達、あるいは自分が理解できない人を総くくりにして突き放すには「変な人」という言葉が便利なのだろう。ちょっとネガティブな視点で言われるのをよく聞く。「変」とカテゴライズされる対象は、マイノリティーの場合が多く、決して「王道」を歩いている人ではない。

変だよね~、あの人・あの親子・あの家族・あの会社・あの上司・あの部下・あの先生・あの生徒・ウチの子・ウチの親。

でも、裏を返せば、そう言っている本人も誰かから「変な人」と言われている可能性が高い。
「変な人」という言葉をかみ砕いてみれば、自分とは違う価値観を持って生きている、自分とは違う生き方、考え方、感じ方をしている人、と言えるのではないか。そうならば、ひとりひとり 人間は違うから、どの人も「変な人」に当てはめられるのはあたりまえ。

普段は大抵自分と似たタイプの人間が集まるコミュニティーやグループ、家族に囲まれて生きているので自分の特異性が浮き彫りにされることも、自分の「変さ加減」を自分自身で実感することは日常ではあまりないが。

北 杜夫の「楡家の人々」ではどこにでもありそうな大家族の日常をユーモアたっぷりに書かれている。登場人物はどの人もアクが強くて、「変な人達」なのだけど、よく見渡せばこんな家族ごろごろまわりにいる。
自分の家族が普通と思えるのは他の家族の内情を知らないから、
自分が普通と思っていられるのも、自分と同じ種類の人間の数以上に自分と違う種類の人間が存在している事を知らないから。自分の価値観・視点がマイノリティーになってしまったことがないからともいえるか?

例えば、日本人社会のあるグループに属して自分はまわりに溶け込んでると、自分は変ではない、と思っている人。外国社会・文化からみたら、それに属してみたら、もっとも変な人とみなされる可能性がある。

自分を基準に物事をみていたら、それはそれは不可解なことが世の中一杯あるだろう。
自分で自分を「変」と思う瞬間だってあるかもしれない。
それは、自分自身を全て把握するのは不可能だから。

「変」って言われたって、自分がハッピーに生きれていればそっちの方がいい。
後世に名を残している人の多くは、当時狂人扱いされたり、見下されたりしている。

何もしないでも、人に合わせる努力をしても、どうせ誰かからに「変」って思われる自分なら、思いっきり自分の思うように生きたらいいと思う。人に何て言われるかビクビクしないで。どうせ私たち ひとりひとりは「変」なんだから、どうせ一人一人 唯一無二の存在なのだから。
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by totoatsuko | 2007-04-26 09:36 | Comments(4)

あまやかされること

d0065558_13174095.jpgあまやかす・あまやかされる、の双方行き違いの 一例。

あるお母さんは小学校高学年の娘に毎週新しい服を買ってあげていた。お母さんは娘を喜ばせてあげていると思っていた。娘の洋服を選ぶこと、買ってあげることに喜びを感じていたが、買い物にあまり乗り気でない娘の姿に気付いていなかった。ある日娘がうんざりして「服を買うお金があるなら本を買うお金を頂戴」と言ったから、お母さんは激怒した。自分の愛情をまっこう否定された気持ちになったから。

お母さんは気付いていなかった、洋服を買うことが娘のためではなく、自分が「何かを娘にやってあげている」という喜びを感じるためだったという事に。傍からみたら贅沢な話だ、毎週毎週新しい服を買ってもらえるなんて。母親は娘が自分の好意・行為をどう受け止めているのか本人に聞いてきちんと確かめてみよう、という発想はなかった。実際のところ、娘は母親の趣味で選ばれた服は好きではなかったし、服が欲しいとはこれっぽっちも思っていなくて、むしろ小説や母親が否定的な漫画を大量に買いたかった。

残念ながら
あまやかしてあげよう、と思ってやっていることが
あまやかしてくれている、と受け止められるとは限らない。


お互いが全く違う思いを感じながら洋服売り場を毎週毎週共に歩いていたなんて、想像すると滑稽な姿だけれど、こういう行き違いってよくある。相手のために、と信じてやっているがその相手は、相手がよいと思いこんでいる「手段」を与えられてうざったいとしか思えない。しかし、そういう風に感じている、とは伝えない。何故なら「折角やってくれているのだから」という相手への配慮があるから。その結果、相手は自分の特別な計らいが受け流されているのに気付かず、歓迎されていると自負し続ける。なんたる無駄。

真意を伝えると、衝突が生じるかもしれない。その関係が壊れてしまうかもしれない、と感じるかもしれない。でも、その関係が大事なものであればそれこそ本当のことを伝えるのをお勧めする。だって、自分がわざわざやってあげていることが実はそんなに喜ばれていないなんて、ちっとも嬉しくないでしょう?それなら、「えぇっ、いままでやり続けたことはホントはうざいと思われていたんだ、ショック。何でもっと早く教えてくれなかったの?(怒り)」という衝撃を乗り越えれば、相手が真に望むことに応えることにエネルギーを費やせる。その関係を成り立たせている成分を見つめなおす機会になる。

あまやかすのは、あまやかす側のエゴが大きく影響している。
それ自体、悪い事でもなんでもない。
相手を「今日は特別よ」と甘やかしてあげて、極上の笑顔をうけとる喜び。
それを求めてはいけない、とは決して言わない。

ただ、エゴが行き過ぎるととんでもない味の人間や自分との関係に育っていくのに加担してしまう。あまやかしのやり方、頻度によっては、精神的苦痛を与えているかもしれない。大事に育てているつもりで、本当の人間関係を築いていく体力を養う機会を奪ってているかもしれない。
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by totoatsuko | 2007-04-24 13:13 | Comments(0)

あまやかすこと

d0065558_1205266.jpg最近ブログのネタが子供とのかかわりから生まれているのは、私の思考や感情のエネルギーがそっち方面に相当いっているのを示唆しているのだろうな、と思いながら、前回の続き、気付き:その二、を書こうと思う。

子供が小さい時は子供が欲しいと言ったものは全部与えてあげる、という人がいる。
愛情をたっぷり注いであげたいから、と。

でも、これって買い与える大人の無責任なエゴではないか、と思う。

先のエントリーでも書いたが、「これが欲しい」という子供は本当にそれその物が欲しいわけではないのかもしれないのだ。ただ気分で言っていたり、大人を試していたり(この人は言うなりになる人か?どういう反応を自分にするのか?)。

子供の欲求を満たしてあげることで、子供の笑顔やハグを得られる。
そんな子供の姿は親を喜ばせる。子供が自分になついている、という錯覚も得られる。もしかしたら「この人は言うなりになってくれる」という打算が根底にあるのかもしれないのに。まさに 知らぬが仏。
子供の言う要求を100%満たしてあげることだけが、子供との関係を強化するわけでも、子供と深い愛情を構築できるわけでもない。

例えば、援助交際なんてまさにそう。本当の愛情関係は絶対にモノを買ってあげたりおごってあげることで作られはしない。もし、そういうのが2人の関係の重要な要素なら、お金がなくなったら、相手の欲求をかなえてあげられなくなったら、終わるしかない。

子供が欲しいというものを全て買い与えれば、その時その時子供は喜ぶし、親は喜ぶ顔が見れて嬉しい。しかし、裏を返せば限られたオモチャを駆使して創造的な遊びをする機会を奪っているし、モノが溢れモノに支配された部屋で居場所が狭くなっていくのに加担している事にもなるし、世界が自分の思うようにいく、という勘違いをさせる一旦をも担っている。


いつもいつもは甘やかせないけど、特別にこのときは、という判断も親の主観で決められ、子供はある意味振り回されている。これが良い悪いというつもりはない。所詮子育ては、親の主観・エゴによって大きく方向づけられているのだから。ただ何故今日はOKなのか、いつもと、今日は何が違うのか、ちゃんと子供に説明してあげないと、どうしてこないだOKだったのに今日はダメなのか理解できず余計な混乱を招く。子供にとっては規則正しい生活リズムや見知った空間や人間関係は安定した心と体の成長の大事な要素。(もちろんスパイス的な混乱状況とそれをマネージし乗り越える体験も大事なのはいうまでもない)

相手を喜ばせたい、というのは人間の自然な欲求だと思う。大抵の場合、その時限りのうすっぺらな笑顔を求めてはいない。自分も嬉しくて相手も嬉しい、自分を気遣ってくれて嬉しい、自分の気遣いが相手に喜ばれて嬉しい、そんな積み重ねがその関係をより心地よく、複雑に絡みあわせることになる。でも、一歩間違えば、あまやかすことは、自分が望んでいないタイプの関係を導きかねない事を心にとめておくべきだと思う。

親子 あるいはカップル 音楽療法セッションで、お互いの気持ちを即興で音や色に反映させてみてコミュニケーションを試みる、お互いを知っていこうとするプロセスを行なうこともある。
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by totoatsuko | 2007-04-24 12:00 | Comments(2)

言葉の真意

d0065558_2139441.jpg子供の牛乳卒業大作戦を始めてから気付いたこと。

その一:本人の真意は、本人の言葉をそのまま受け取っても汲み取ることは出来ない。

その二:甘やかすことは、得てして甘やかす方のエゴに基づくことが多い。


今日は、その一について書いてみようと思う。

ムスコはもう随分前に牛乳を哺乳瓶で飲むのを卒業していい年齢なのだけど、寝起き・保育園から帰宅後・寝るとき・夜中数回+ 精神的に不安定なときに牛乳を飲みたがっていた。それも哺乳瓶じゃなきゃダメなのだ。夜中にミルクを飲むと、牛乳に脳を活性化する成分が入っているので余計夜中に目覚める回数を増やすので、哺乳瓶の中身を少しづつ水に替えていって夜中の牛乳はやめるように、とボストンにいるころ主治医のハーバードの医師に言われていたのだけれど、水入りの哺乳瓶を拒否して夜中に泣き叫ばれて、牛乳飲ませれば静かに寝てくれるんなら、と最近までそうやってきた。 でも、そろそろ現状を変えないと、という気持ちと、きっと今ならムスコもこの変化を乗り越えられそうだ、という私の主観的な印象から、先週からミルク卒業大作戦を慣行。それは今の自分なら彼の変化に必要になるであろうバトルに辛抱強く付き合えるだけの精神的・体力的余裕がある、という私自身の自信もあっての事だ。

もちろんいつも問題なくもらえていた哺乳瓶入りミルクをもらえないムスコは「にゅぅにゅぅ(牛乳)!にゅぅにゅぅ!」と大絶叫。そのたびに他の楽しいこととか興味がありそうなことを始めて気をまぎらわす。彼は「牛乳を頂戴!」と言っているけれど、牛乳自体が飲みたいわけではない。哺乳瓶に入った牛乳をちゅーちゅーすることで得られる精神的満足感や、安心感、いままで繰り返し行なってきた生活のパターン(決まった時ー例えば寝起きに牛乳が飲める)を施行することで、expectationが満たされ事を求めているのだ。現に「にゅぅにゅぅ~」と言った時、コップに牛乳を入れて渡したら、怒りをもって拒否されてしまった。

大人である私が、「にゅぅにゅぅ」と言われ、その言葉どおり牛乳を与えても、彼が本当に必要としている精神的満足感は与えられていなかった。というか、牛乳がなくても快く生活できる(現に保育園では牛乳は1日1回コップで出てくるだけだが、彼は問題なくすごしている)はずなのに、安易に彼の言葉どおり牛乳を与えることにより、彼の本当の能力(牛乳なしでも楽しく暮せる)を活用する機会を摘み取っていたし、夜中連続して寝る可能性も奪っていた。

言葉を使って自分の意志や感情をうまく表せない子供の真意を汲み取るには、色んな角度からその子を観察してコミュニケーションをとろうとする試みがとても大事だと思うし、それは、大人のわたし達にも当てはまることだと思った。

例えば、「かまわないで欲しい」と相手が言っても、その人の真意は違うところにあるかもしれない。「もっとかまって欲しい」のかもしれないし、「そういう関わり方をしないで欲しい」というのかもしれないし。その人が選んだ「構う」という言葉は、その人にとってどういう意味を持つのか?それは、本人に確かめてみないと分からない。その言葉を発した本人でさえ、自分の真意を分かっていないかもしれない。「構わないでほしい」「一人にしてほしい」と思っていると思い込んでいるが、実は自分の心はとても寂しい思いをしていることもある。で、寂しいとおもっている自分を認めたくないから、他人に気づかれたくないから「構わないで欲しい」と周りに対して壁を作ったりする。

鬱やひきこもりの症状を心と体が発するとき、エネルギーのベクトルは内側に、外的要因を排除して、どんどん内側に停滞していく。それを「これが自分の求めていることなんだ」と解釈してそのままなるに任せて孤独に脱力して無気力になっていくに任せると、その負のスパイラルからは抜け出すことは出来ない。心と体はもう惰性でその方向にまっしぐらに向っているのかもしれないが、回復したい・バランスのとれた状態に戻りたい、という真意だって存在するはずなのだ。でも、回復しようとする真意を汲み取れなかったら、「生きてる意味がわからない」「何もしたくない」「死んでしまいたい」というメッセージしか聞こえてこない。自分の真意とは違う方向に生きてしまう。

ムスコが牛乳を卒業するにはちょっとしたバトルが数日間必要だった。怒りの爆発と悲しみの涙。ボクは牛乳が欲しいんだ!なくちゃダメなんだ!と何も考えずに思い込んで、それを満たしてくれない私に感情の塊をぶつけてくる彼に、牛乳がなくても大丈夫、という自信をははぐくんであげること、「牛乳」と言っているのはただ口癖だから、というのに気付かせてあげること。彼も私も相当なエネルギーを費やしたし努力もした。変化を生むには、多かれ少なかれ、背伸びをしなくてはならない。

音楽心理療法では、これと似た様なプロセスが音楽を聞いてイメージしたり、即興演奏をしたり、絵を描いたりする事を通じて発生していく。その結果、自分の深層心理が自分に望む変化を実際に起こさせることが可能になるのだ。こうあれたらいいなぁ、と思っているだけではなく、現実に自分の人生を望む形に変えていく。一人では起こらないそのプロセスに必要なエネルギーを自分の内側に見つけ喚起し継続して変わっていくために必要なサポートのためにセラピストである私と音楽とイメージが存在する。
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by totoatsuko | 2007-04-23 22:16 | Comments(0)

古材

d0065558_22571961.jpg日本の住宅の平均使用年数は約26年。アメリカの44年、イギリスの75年に比べて極端に短い。
しかし最近政府レベルで建築物の再利用を促進する取り組みをしているそうだ。
何故なら、建築物を壊すと膨大な廃棄物が出て、その処理に手間ひま・お金がかかるから、資源を大切に使わないと、という意識が生まれてきたから、高齢化が進み新しく住宅を建てる資金源が(特にバブル期に比べて)著しく低下し現状の都市建築環境を維持するのが難しくなる、と予想されるから、のようだ。

私は、チープ&シックなものと同じくらい、気に入ったモノを大事に長~く使うのが好き。
今日は、田んぼの中を走るローカル電車でとことこいって、琵琶湖と比叡山の間にある小さなまちで古材をみてきた。

2ヶ月くらいかけて古い民家(新しいもので明治時代に立てられたもの。古いもので徳川時代)を丁寧に解体し、磨いて朽ちた部分を落とし、現代の家の材にする作業をしている人たち。日本文化に対する誇りと知識と職人気質に 唸らされた。

古材には一人一人の職人の癖やこだわりが随所に見られる。
今の建築物には絶対にみられないもの。
ゆらゆら、とわれるガラスは昔ガラスを作る技術が低かったからガラスの前にたつと自分の姿がふにゃふにゃ曲がってうっすら写る。それがまたいい味を出しているのだけれど、技術が発達した今の技術でも、技術がなかった頃作られたこのガラスは作れないのだそうだ。まるで、子供の無邪気で無作為な絵や音色と同じで、子供より色んな事を知っている大人が表面的に真似しても、所詮真似した色や音にしかならない。

プラスチックや、合板・ベニヤ板では作れない本物の「生きている」空間。

d0065558_22495860.jpg新しいものもいいけれど、日本人も自分が選んだ生活空間、もっと大事に使うようになれないだろうか。その空間は自分が・人間が生きてきた足跡が刻まれている。日々作られていく傷や角が取れた丸みのあるテーブルや柱。例えば喧嘩してぶつけた時に出来たへこみだとか、毎日にぎってできた丸みや艶とか。手垢や油、すすによる黒ずみ。消せないと分かっているからこそ、もっと毎日を大事に生きることが出来るかも。あるいは、失敗と思ったこと、間違いと思った出来事、偶然起こることが床や家具に味を加え自分だけの唯一無二のものになっていく様をみて、人生で起きる様々なことも全て無駄ではない、と思えるようにはならないか?

今の時代 リセットがとても簡単。ゲームはリセットボタンを押せばいいし、いらなくなったものは捨てて、それに似ているけどより新しくて面白い廉価なレプリカも買える。家の解体だって昔に比べれば随分手軽に出来る様になっている。一本一本木を繋げている縄をといて、はめ込まれている材壊れないように大事にはずす vs ブルドーザーや火薬をつかって一瞬にして家を壊す。今は作るもの壊すのも昔に比べれば信じられないくらい簡単だけど、再利用できるものも一瞬にしてゴミにしてしまう。

早く作業を進めることで時間や労力を有効に使っているのかもしれないけれど、地球のかけがえのない資源は無駄に、丁寧に生きる事に対する精神は 無視されている。
忙しい日帰りの旅でしたが、いろいろなインスピレーションを受けてきました。

民家再生リサイクル協会
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by totoatsuko | 2007-04-18 22:56 | Comments(2)

選挙カー

d0065558_17515648.jpg区議会議員の選挙カーが週末から声を張り上げている。
子供の頃、週末の朝早くから向かいのパチンコ屋の宣伝カーが大音量の音楽付で「本日10時大開店、大感謝 大放出! みなさまこぞってお出かけください~ ♪」と繰り返し流して悪い心象しか持てなかったのを思い出した。

選挙カーから聞こえてくる名前の連呼。
その人の人柄が見えるわけでも、その人がやってきた事が分かるわけでもなく、日常の静寂を突如として一週間妨害し続けるものとして現れた。こういう選挙活動で票が得られる、と立候補者に思わせているのは一般市民。

日本の選挙って何なんだろう?と思う。区議選に限らず。
そういう選挙にしてしまったのは、まさにわたし達日本人なのだろうけど。

ノリとか漠然としたイメージで選ぶ事になんの躊躇もないどころか、それが当たり前になっているのか。さらには、イメージ優先で選んだ人がちょっとでもヘマしたり、気に入らなかったら、すぐ支持率しなくなったりして。自分のチョイスにもっと責任をもって、その人の成長が必要ならそれをサポートする、その人が何かを成し遂げるのを「待つ」ことは出来ないのだろうか?
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by totoatsuko | 2007-04-16 17:51 | Comments(1)

価値観のちがう両親

d0065558_9143100.jpg私の両親は、育った時代こそ同じだけれど、色んな面で異なる価値観をもっている。夫婦といえども他人だから、そんなことは当たり前なのだけど、子供の私には戸惑うことが多かった。

あるお母さんは30分以上子供にTVゲームをさせたくないのだけど、お父さんはゲームおたくなので、長時間ゲームに否定的なお母さんに対して子供の前で「30分でゲームの真髄が分かるはずがない。とくにロールプレイイングなものは、30分じゃ何も話が前に進まない」というのだそうだ。お母さんの面目は丸つぶれだし、お母さんの意見を尊重しない・違う意見の人と対話をせず頭ごなしに否定するお父さんの態度は子どもにどう映るのだろう?

子供は自分の面倒を日々細やかにみてくれるお母さんのいう事を聞くべきと思うし、そういうお母さんの愛情を、お母さんに逆らうことによって失うのは怖いと思うと同時に、自分の欲求をサポートしてくれるお父さんの威をかりてゲームをやり続けたい、というジレンマ。

私は、「ひとりひとり異なる生き方・価値観を持っているのはあたりまえ」と今では思うけれど、
自分にとって親が絶対的な存在だったとき、その2人が異なるメッセージを送ってくると「どっちが正しいのだろう?」「どっちも正しい・間違ってるのか?」という両親の価値観に疑問を感じ不安になった。かたっぽのいう事を信じて行なったら、かたっぽに否定される。親に認めてもらえないことは、子供の私にとってとてもシビアな体験だった。それは、心のホームベースを奪われ途方にくれた、何か信頼できる軸を失ったような、自分がとても壊れやすくなった感覚だった。

そこで、子供の私は学習する、親が絶対ではないことを。そして自分が都合のいいように・自分が傷かないように親のダイナミックスを操ったり、目をかすめるすべを習得していく。親の都合で自分がぐらぐらしてしまわないように。しかし、それだけでは自分の拠り所となる信念や価値観は生まれない。そこで、私は無意識のうちに、自分にしっくりくる価値観を自分で探し、構築し始めた。

そうして、中学・高校と少しづつ人にどういわれようと「これだけは自分にとって正しい」と思えるものが見つかってきたけれど、それと同時に親や周りの人に真っ向から否定されることも増えてきた。自分の価値観をはっきり持っていなかったときは、周りの価値観にそってなんとなく湾曲していたから、湾曲する痛みとか、疑問とかは自分の内面で感じているだけでよかったけれど(それだけでも心は辛い思いをしていた)、「私は湾曲できません」というのを態度で表すと、子供は大人のルールに従うもの、と思っている大人たちは、積極的な否定という手段をとってきた。そこで、私は積極的に自分を守る、という手段をとらざるを得なかった。具体的には、自然に恒久的に表情がなくなったし、口数も格段に減っていった。


絶対的な拠り所、安心できる場所と人間関係は小さな子供にとってとっても大事。しかも、そういう物をまだ自分自身で見つけたり作っていけない頃の年齢には、親や親的存在の人が提供してあげないと。ただ、いつまでも親の価値観に沿うよう指導し続けると、そらは単なる押し付けで、子供が自分自身の価値観・生き方を見つけるプロセスの妨げになってしまう。

両親の価値観が異なってもいい。
でも、子供が例えばお母さんの価値観にそって行動した時、お父さんが例えそれに賛成できなくても、子供を叱らないで欲しいと思う。混乱してしまうから。もし、子供のその行動をどうしても見守れないのだったら、その価値観を子供に教えた大人(奥さん、祖父母、学校の先生、近所の人)と、まず話をするべきだ。
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by totoatsuko | 2007-04-13 12:56 | Comments(2)

お休み

d0065558_11592765.jpg気がついたら、もう1週間ブログをアップしていない。
書きたい事がなかった・書きたいと思わなかったから。
よく書いている週と、何が違ったのだろう? とプールで泳ぎながら想いをめぐらせてみた。

おそらく、日常を過ごすのに、外から色んなものを貪欲に探し、取り入れようとする心と頭と体の体力がフラットになっていた。それでも勝手に自分の中に入ってくるもの、自動的に取り込んでしまうものがあったのだろうけど、それを自分のフィルターにかけて、料理して、消化するプロセスが作動していなかった。

何も生まなかったり、達成しなかったり、物事が進展しなかったり、そんな時って、書くことに限らずいっぱいある。

セラピーのプロセスでも、数回続けて あるいは数週間・数ヶ月にかけてなにも進展していない、なにも変わらないような、停滞感をクライアントが感じることもあるし、私が主観的に感じることもある。
毎回お金を払っているクライアントからしたら、一体何のためにセッションに来てるんだ、と思うだろうし、それはクライアントの立場も体験している私にはよく分かる心理。ただ、ひとついえることは、人やその人の時期によって「停滞」している状態が、その停滞後に起こる変化に欠かせないものである、という事実。停滞感をめいっぱい感じたり体験することも意味がある。動かないこと、変化しつづけていないことは無駄ではない。なぜなら、一見 何も変わっていないように感じることでも、実際は自分の気付いていないところで生きる素材は蓄積・熟成されているのだから。

最後に 例えを一つ。
チーズを作るには、生乳を仕込む重労働をした後は、湿度と室温を保ってただ待つのみ。仕込んだミルクと塩が空気に触れて呼吸をしてチーズになるまでの時間を何もしないで時が来るまで「待つ」ことによって、美味しいチーズと、それを引き立てるワインや友人とのお喋りや料理とのコンビネーションによる極上のひと時にありつける。
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by totoatsuko | 2007-04-13 11:59 | Comments(0)

ルールは破ってもマナーは守る

d0065558_12145899.jpgラジオから私の耳がピックアップした1フレーズ。
とてもピンときた。

既存のルールに疑問を持ち、ルールに対する新しい解釈をもったり、ルール自体を時代のニーズに合わせて変えようとしたりするのは、クリエーティブな行動を起こすために必要であったりする。しかし、そのために周りの人の気持ちを害したり、それによって自分の大事な人間関係を失ってしまったり、既存の文化を否定してしまっては、折角のチャレンジもうまく成長できない可能性が高い。何故なら、自分が生み出すクリエーティビティーは、既存の環境に提示されるのだから、自分がどんなにクリエーティブでも、そこに更なる刺激やエネルギーをつぎ込んでくれる環境や人間関係は、既存のものの中に存在するのだから。そこから自分を切り離してしまうと、まるで、茎をポキっと折られた摘まれた花の様なものだ。

新しい価値観や、ルールを提示する時は、どんな時もコントラバーシャルを巻き起こす。
特に、和を大事にする、人と足並みをそろえる事をとても大事にする日本文化では、新しいものに対する抵抗感を一度感じてしまったら、それを払拭するには相当の時間とエネルギーがかかる。

人は人、と割り切って非難されようが罵倒されようが自分の生き方を貫けるのは素晴らしい。でも、それが 人を蹴っ飛ばして突進していくような形ではなく、自ら放つ異色のオーラが、周囲に広がって、広がった波紋の先の方では周りに自分のオーラがブレンドするような、また回りがそのオーラにふれてみたい、と思えるような、そんなオーラの源になれたらいいなとおもう。
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by totoatsuko | 2007-04-02 12:15 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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