カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

totoatsuko.exblog.jp ブログトップ

<   2007年 03月 ( 12 )   > この月の画像一覧

お花見

考えてみたら、最後にお花見をしたのはNY留学前。
まだ、アメリカの大学院から合否通知を待っていた頃。
今日は7年ぶりに日本で桜を愛でて、とても嬉しい午後になりました。

d0065558_21433238.jpgd0065558_21434366.jpg
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-29 21:43 | Comments(2)

強い人

d0065558_1182476.jpg強い人ね、 そう言われることがある。


私が強いかどうか、というのは分からないけれど、
自分が弱いというのを知っている、という強みはある。なぜなら、我慢に我慢を重ねて自分が壊れてしまう前に自分をケアしたり、誰かに助けを求めることが出来るから。


強い人、そのイメージってどんなものなのだろう?

硬くて乾燥している木は、ポキッ と簡単に折れてしまう。
冷たい鉄の棒は しなることが出来ない。

本当の強さ って何?

強い人 になりたいとは思わないけど
しなやかに生きたいとは思う。
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-29 11:08 | Comments(0)

自分にとって正しいこと

d0065558_226242.jpg子どもの頃、
「自分が一番正しいと思ってたら、大間違いなんだからね。」
と大人にしかられたことがある。

その大人達がこうあるべき、こうしたほうがいい、と折角勧告してくれたのに私が言うとおりにしない上、はっきりと「私はそういう風にはやりたくない」と言っていたからだと思う。

私は、“私にとって”正しいと感じることを実行しようとしていただけで、大人たちが勧める選択肢を否定しているつもりは毛頭なかったし、「自分が一番正しい」なんて滅相もない。自分の考え方が万人の手本になるなんて、これっぽっちも思っていなかった。しかし、子どもからのそういう対応に慣れていなかったのか、大人たちは幼い私の態度に、自分達の価値観が否定されている、という印象を勝手に持ってしまった。きっと彼らの中には、「子どもは大人の言うことを100%聞くべき」という暗黙の了解がベースにあったと思うのだけど、それプラス、自分の価値観を子どもが従わなかった(私は、その選択肢自体は否定していない。繰り返しになるが、自分にとってしっくり来なかったから選ばなかっただけ)だけ。 それなのに、自分が非難されている錯覚に陥って私を諭しているのは、その大人に「人に何を言われようと、自分にとって正しいことは正しいと信じていい」という子どもの私がもっていた自分の選択に対する自負みたいなものを持っていなかったからだろうと、今振り返って思う。

「私はそうは思わない」というのは、
相手を否定している、ことではない。

相手が「そうだよね~」と相槌を打ってくれないからといって、
自分が否定されているわけではない。

ただ、お互いが違う価値観や視点を持っただけのことである。

自分が自分の経験や直感から「このやり方がいい」「こうするべき」と強く信じていることを他人に勧めても、同じ結果にはならない可能性が高い。だって、実行するのは自分ではないし、結果を受け止めるのも自分の心ではない。

日本は、協調性とか、和 を大事にする文化だから、
自分にとって正しいこと、がまわりの人達と違うと感じてもなかなか堂々と提示しにくい。
私が幼い頃体験したように、非難の矛先を向けられる危機感を感じるだけで、何のメリットも感じないかもしれない。

でも、皆がみんな 同じような選択をするとか、同じような思考回路を辿るとか、同じものを選ぶとか、よく考えてみると変ではないですか? ひとりひとり 全く違う人間なのに。

違いをクリアーにしても、お互い相手に対して否定的に・懐疑的にならない、
「あなたは そう思うんだ、へぇー!」と 新たな発見にワクワク出来るような、
そんな関係がより多くの日本人に出来るようになればいいのにな、と思います。
そうすれば、相手と自分が違うからといって、腹を立てなくてもいいし、より相手に対して興味をもって接することが出来るし、自分の個性を周りから否定的に見られる割合も減るだろうから、余計な我慢とか偽りの自分を異常なまでに創りこまなくても良くなるのではなくでしょうか。
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-24 21:58 | Comments(0)

どうしようもないこと

d0065558_2253385.jpgレストランで食事をしていたら、隣のテーブルの会話が聞こえてきた。

超肥満になる心理がわからない。だって、食べ過ぎたらまず自分が気持ち悪いでしょ。それに、服がきつくなったり、外見が醜くなって。だから、自然と食べないようにすると思うんだよね、フツー。

まぁ、そうじゃない人だっているんだよ。X子のフツーが通じない人、一杯いるでしょ。

なんで太ってマズイって思ってるのに、食べ続けるのか理解できない。

だからぁ、理屈じゃないんだってば。ストレスとか色んな理由で食べちゃうんでしょ、きっと。

理屈じゃないって言ったって、ちょっと考えれば分かることじゃん、これ以上食べたらまずいってさ。


食べることをコントロール出来ないことが不思議でしょうがないX子さんには、
頭で心を支配できると信じている人が存在するのと同じように、
心が頭を支配するのが基本な人が存在する、
という発想が出来ないようだ。

そういえば、一昔不登校が問題になり始めたとき、登校時間になったら腹痛で学校に行けない、というのは、甘えているからだ、腹痛なんてのは嘘だ、と切り捨てる大人たちが沢山いた。
これは、身体症状をとおして現れた心の叫びなのに。
理屈で学校に行くよう説得されたって、身体症状は治まらない。


心は頭でコントロールしきれるものではない。
わたし達は、心を理屈でなだめすかして、心おだやかに過ごす技を習得していくが、完全に心を頭の支配下に置くことは出来ないのだ。なんで?ときいても理屈では説明できない心の事情ってものがある。そんなとき、力ずくで心を頭が望むようにコントロールしようとしたら、もっともっと心は頭に対して硬くなり、そっぽを向いてしまう。心と頭が分裂した人間になってしまう。
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-22 07:29 | Comments(0)

愛してほしい、ありのままの私を

d0065558_2243554.jpg山本有三の「路傍の石」を小学生の時に読んで、主人公をとても羨ましくおもった記憶がある。正確には記憶していないのだが、主人公の少年のお母さんは病気がちでいつも床に伏しているのだが、少年にああしなさい、こうしなさい、もっと頑張りなさい、と言わない。ただありのままの少年を受け入れ、話を聞いてくれる人だった。

生命がままならないと、成績がどうとか、身振りそぶりがどうとか、門限が何時だとか、気にしてる余裕もなくなってしまっていたのかもしれない。ただ、元気で育ってくれればいい、と思うのかもしれない。当時の私には、そんな母親からの受け入れられ方・愛され方を夢見たものだった。

子供は、愛されている・受け入れられているという安心感を土台に、自分というものを形成していく。

親子関係においては、子供が小さければ小さいほど親は子供を育てる役割を負っているので、子供に色んな事を教えようとする、手本を示そうとする。当然のことながら、親の価値観・基準で子供は教育されるし、子供は親の背中をある基準(手本)としてみなし、それを通して世界や自分自身を判断したりもする。

しかし、子供が育っていく過程で、親以外の人間、家庭以外の環境に交わり、自分自身の基準というものを作っていく。勿論、大人になっても結果的に親に教えられたとおりの価値観をもって生きる人もいるが、親とは全く異なる哲学を持つ人もいる。

親にとって、子供は何歳になっても子供、とはよく聞く言葉だが、ここには色んな行間が含まれている。成人・老人になった子供を、未成年の時と同じようにしか扱えない親 - 自分の価値観と異なる事をしている子供の姿を見たとき、子供に対して批判的になったり、子供の(育っていく過程で彼ら自身が形成してきた)価値観を変えるように指導しようとする。確かに、子供より年上の親は人生の先輩かもしれないが、成人した子供の指導者に勝手になる権利はない (子供が望めば話しは違うが)。

子供が幼いときは、ゆるぎない自信をもって親の価値観を子供に示してやることは、その後子供が自分自身で自分の価値観を築くためにとても重要な足場になると思うが、イマドキの親の中には、生き方に対する信念みたいなところでは足元がぐらぐらしてるくせに、子供が成長したら細かいこと(もっと勉強しなさい、とかニートはだめとか、他人に迷惑かけたらいけないとか)にウルサイ人が多いような気がする。そのとき、そのときの子供を、ありのままに受け入れられない。子供との関係の変化にフレキシブルになれない。もはや子供は5歳児ではなく、自分が5歳児の親ではないことに気付いていない(というのは大げさな例えだが)。
しかし、親の無条件の愛情、それは交換条件(いう事をきいたら愛してあげる)ではなく、ただただ存在しているだけのそのままの自分を受け入れ、愛してくれる人の存在は、子供の心の成長に大きな影響を与えるし、それが子供の頃満たされなかった大人は、無意識の内にそれに代替するもの(例えば、食べ物だったり、売春だったり、お金だったり)を曲がった形で求め続けてしまったりする。

時代が変われば、生き方も変わる。
親の時代には受け入れがたい生き方・価値観も、今の時代では違うように受け止められている。そういうのを知識として知っている親は沢山いるのだろうが、いざ自分の子供との関係になると、やっぱり自分の価値観を通した色眼鏡でしか子供をみれなくなってしまうのだろうか?

どんなに違う価値観の人間になっても、親子は親子である。
自分の親だから、自分の子供だから、自分と同じような考え方がどうして出来ないの?と無意識のうちに思っている理屈は分かるけれど、お互いを一人の別個の人間としてRespectし、違いを認め合えたら、もっと素直にありのままの姿の親を子供を愛せるようになるのではないかと思う。
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-22 07:22 | Comments(0)

それは"あなたにとって”どんな絵なのか?

クライアントが、ある絵をみた時、それが すーーっと印象的に自分の中に入ってきて、
絵が自分の心の状態とまさにシンクした体験を話ししてくれた。

それはどんな絵なのか聞かせて欲しいと言うと、絵葉書を持っているから実物をおみせ出来ます、といわれたのだけど、その葉書をポケットから出す前に、「自分の言葉で」その絵を語ってほしい、とお願いした。

セラピーのプロセスでは、私がその絵をみて私がその絵に何を感じるのか、あるいは、クライアントが見た絵を実際見て、クライアントの絵との体験を、私の主観で想像・仮定・分析するのではなくて、クライアントにとって、その体験は何だったのか、一緒に掘り下げていくことに意味がある。

同じ絵をみても、同じ音を聞いても、同じものを食べても、人によって全く違う体験をする。
1枚の絵の第一印象が、これほど悲しい色合いはない、と思う人もいれば、これほど斬新なアングルはない、と思うひともいる。視点が違う、感じるところが違うのだ。人の生き方が、感性が一人一人全く違うのと同じ。


クライアントがどんな形容詞を使いどんな表情と身振りとエネルギーをもってその絵を語るのか、感覚を研ぎ澄ませて聞いていると、クライアントの体験を少しだけ追体験できる、クライアントの心の状態に少しだけ近づくことが出来る。

また、クライアントも、言葉に出来ない体験を言葉にしようと試みることにより、その体験をもういちどなぞり直して、自分の心を理解するてがかりを見つけていく。私は随所 随所で質問することにより、クライアントがその体験をかみ砕いていく手助けをする。その絵について、即興演奏するのも、絵との体験を掘り下げるのに有効だ。


絵と、絵との体験をかみくだいた後に一緒に絵葉書をみる。クライアントが言った言葉・奏でた音を思い出しながら。もしかしたら、あの時絵から感じたシンクロニシティーは数日たったこの時には全く感じないかもしれない。心は常に変化しているからそんな事は当たり前に起こる。それでもいい -その違いは何なのか探る材料にもなりうるから。

セラピープロセスの中で重要なのは、「自分」がそれをどう感じたか、ということ。
専門家の説明文とか、世間一般の評価や話の聞き手の主観は、個人的な体験をかみ砕いていく時には必要ない。実物をみせるよりも、自分のやり方で伝える努力をしたほうが、自分の体験をよりリアリティーと正確さをもって、相手にも、自分に対しても再現して見せることができ、個人的体験を自分理解のための素材として有効に使うことが出来る。
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-21 00:44 | Comments(0)

離婚かやりなおしか?

アメリカで製作された映画をみていると、よくセラピストが登場する。
映画の登場人物がセラピーに行っているか、セラピストにスポットライトが当てられている。
(そういえば、余談ですが以前飛行機で知らない隣の人と世間話を始めて、ところで仕事は何をやっているの?という話になり、「music psychotherapist」と答えると、丁度その人がつけていた母子家庭が主題の映画で、ヒステリックで最悪なお母さんの職業がmusic therapistだったので、お互い苦笑いしたのを思い出しました。何という映画だったか分かりませんが。)

私の所にも、結婚・離婚や結婚生活、パートナーとの関係にわだかまりを感じている方もいらっしゃいますが、セッションを続けていく過程で、パートナーと別れる選択をした人もいるし、本当はよりを戻したいという気持ちに気付いて、そのための一歩を踏み出す人もいます。

このプロセスで私がすることは、その人が今どんな心の体験をその関係の中でしているか、どうしてそういう関係を作っていくに至ったのか探り知っていくお手伝いです。すぐに白黒の答えを出すことにプライオリティーをおきません、それは自分らしい答えを見つけるために大事なことではないから。

私は、クライアントの話を聞いて、「そんな人とは別れるべきです。そのためには~しなさい。」とか、「それはあなたが間違っていますよ。我慢すべきですし、よりを戻した方があなたのためです。」なんてことは言いませんし、思ってもみない。

そんな助言は、友人にもできるし、別れる・別れないの理屈や言い訳、理由付けは本人だって100通りくらい考え抜いていたりする。それでも、しっくりこないから、もつれた関係の中でもんもんとしている。

私は、クライアントの全てを知ることはできない。(そもそも自分の全てだって分かりえないと思っている。)よって、クライアントにとってどういう選択がよいか、なんて私にいえることではない。ただ、クライアントが自分にとってよい選択をするために、偽りのない自分の気持ちや姿を知っていく「自分ひとりでは出来ない」プロセスを促す事は出来る。

自分の知らない気持ちや側面を知ったところでどうなるのか?「So what?」
そんな疑問を、セラピストの卵の頃思ったことがあるが、
知っていく過程において、過去どうして自分があのような意思決定をしたのかとか、どんな自分で今の自分が構成されているのか、等 今まで感じたことがない方面から自分を感じるようになっていく。受け入れることができなかった自分や他人を受け入れるスペースが自分の中に出来ることもある。そういう色々な感情や事実をプロセスしたり、過去・現在の自分の行動うぃ学ぶことにより、次に行なう自分の意思決定が、自分に対してより素直なものに自然となっていくー、人生がより楽になる、素直になれるのだ。
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-21 00:24 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(0)

生命

新生児を胸に抱いて、とても不思議な気持ちになった。
赤の他人の精子と卵子が何らかの経緯を得て出会い、細胞分裂を始め、人間としてその後(平均すれば)何十年生きる生命がお母さんの内臓の狭間で約40週はぐくまれる。

ただの細胞だったのが、声を発し、周りの音に反応するようになる。

1年もすれば、その細胞が言葉を発し、感情を表現し、自我や意志をもつ。
個性がはっきり出てくる。

こうして出来た小さな「人間」は、その細胞を形成するに至った精子と卵子の提供主とは別の人生をもうすでに作り始めている。もちろん、DNAを受け継いでいるけれど、その個が元々持っているものと、育つ環境の化学反応によって、その個でしかありえないものを作っていく。

親や育てる人の存在は、「小さな人間」にとても大きな影響を与えているけれど、
同時に、その個をコントロールすることは出来ない。

虐待などで子供を殺してしまうー子供の生命を奪ってしまう大人がいますが、それでも、大人が子供の個をコントロールしたとはいえないでしょう。死んでしまった子供との関係は、子供の死後も続きます、その子に関わった大人の記憶の中で、心の中で。その後に大人の生き方や、心の在り方に影響し続ける=生命を奪ったからといって、大人の記憶から存在を抹殺できないですから。


ちいさな ちいさなただの細胞が
時をへて「赤ちゃん」になってこの世に身を現し、
時を経て 思春期を通過し、
時を経て 大人 と呼ばれる時期を過ごし、
時を経て 老人となる。

最初に出会った精子と卵子の持ち主にはどうしようもできないドラマを展開していく。
その間、時代はめぐり、世界は変化を続ける。

「泣き喚く赤ん坊」というかなり生活感があるものを腕に抱きながら、
細胞からの神秘的な変遷を想い、なんともいえない感覚を感じたのでした。
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-20 22:39 | Comments(0)

治療をあきらめない

これも、同じ小児科の先生から伺った話。

「アメリカと比べて、日本は治療をあきらめない、さいごまでやってみれる土壌がある。アメリカでは死んでしまった人でも、日本の医療環境にいれば治癒させることが出来たかもしれない、というケースが沢山ある。」とのこと。

アメリカは、保険は個人が民間の保険会社と契約しないといけないので、医療費をじゃぶじゃぶ使えないのだ。保険会社、保険プランによって、支払ってくれる医療費の範囲が違うし、保険会社はなるべく過剰に支払わなくてもいいように、治療プランを厳しくチェックする。

病院は病院で、ちゃんとビジネスとして成り立たないといけないから、病院(入院)でしかできない必要最低限の治療だけをして、家に帰らせる。それによって、沢山お金を使ってくれる患者さんをより多く診れるわけだ。

書いているうちに、アメリカ医療事情へと脱線しそうになっているので、ハーバードの公衆衛生の大学院で学んだ友人のブログにバトンタッチ。


話を元に戻すと、
アメリカでは、例えば80%治らない、と判断されたら、治療を打ち切る事を本人・家族に勧める。治る見込みの低い患者を診ない(切り捨てる)事によって、治る確率が高い患者に時間が割ける、というロジック。

また、一人当たりの医者が担当する患者の人数が、アメリカと比べて日本は信じられないくらいに多いので、日本の医者は超・忙しいのだそうだ。

わずかな望みにかけて治療を受け続けられること。
それは、患者が望んでいれば、ほんとうにありがたいだろう。闘病して、最後まで頑張りたいと思う人にとっては。お医者さんも、最後まで全力で応援してくれる、治療してくれる、という態度だと、なんと心強いことか。話を聞いていてそう思った。

反面、そんなわずかな望みにかけてまで、辛い闘病をすることが100%患者とその家族にとっていい選択とは限らないとも思う。過去の投稿で書いたけれど、あるお医者さんが、
「私は、病の人を助けたくて医者になりました。でも医者になって気付いたんです。人間は必ず死ぬ。それを医者が止めることは出来ない、と。」


もし、自分にとって大事な人や自分が重い病にかかったとき、私はどんな医療を望むのだろう?冒頭のお医者さんの言葉は、私にそう考えさせた。

大事な人に少しでも生きていてもらいたい、あるいは、もう少しこの世界に留まって大事な人と時間を費やしたい、そう思って、わずかな望みをかけて生きるために積極的な医療介入を望むのか、病と共生し共に歩き時がきたら病と一緒に旅立つことを望むのか?
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-13 00:08 | Comments(2)

日本社会でCreativeであることが意味するもの

以前美容師さんがかっこいいデザインのドライヤーを使っていたので、どこの製品ですか?ときいたら、確か 「イタリアのメーカーです。」といわれた。

「機能・性能は、日本のものって、海外の物と比べたら格段優れていたり、使い勝手がよかったりするのに、どうしてデザインはイマイチなものが多いのでしょう。」と言うと、
「日本では、思い白いデザインとか色にすると売れないらしいですよ。」という答えが返ってきました。
ふーん、日頃生きてると、日本も結構面白いものが出てきたし、それを奨励する・求める風潮が出来上がってきたと思っていたけど、違うのかな、そう思ったのを思い出す。


また、化粧品のプロモーションの仕事をしていた人に聞いた話。
「素顔の自分らしさ」をキーワードに、ある綺麗どころ有名女優を起用して売り出したプロダクトが爆発的に売れたのだけど、よく話をきいていると、消費者がその化粧品を買った理由は、素顔の自分を出したいという願望からではなく、「素顔・素肌で勝負している(ようにみえる、厚化粧にみえない)女性に(新製品を使ってその女優のような化粧をすることによって)なりたい」願望だということ。
「自分らしさ」というキャッチは聞こえはいいが、現実に起こった現象は、没個性化。

本当は、誰も素の自分なんか出したくなくて、やっぱりみんなが「いい」と思うものやトレンド(素肌っぽさ、作りここんでいないように見せる細工)に乗っかりたいだけだったのかもしれない。


勿論、自分達の親の世代と比べたら、Creativeであること、ひらめきを行動に移すこと、周りの人と違うことをすることに対する社会の風当たりは変わって来ているのかも知れないけれど、今の日本人は、真にありのままの姿であることや、思ったことをお互い伝えあうこととか、他の人と異なる考えや行動に直面すると、あこがれたり、そうありたい、と思いはするけれど、現実には、無言のうちにささーっと否定的な空気をつくり、無意識の内に拒否反応を起こすことが多いのだろうな、と感じています。

色んな人種がいて、文化が混在しているNYでの私の体験は、何をやっても驚かれなかったこと。ふーん、あなたはそうなんだ、という感じ。一人一人カラフルで、いろんな形(例えば、着ているもの・体形という点)があるから。 日本では極端に痩せてる、太ってる、変な趣味、と思われる外見も、難なく景観の一部になるし、人ごみにまぎれる。「美人」「Cool」のストライクゾーンも、日本と比べて、幅が格段広い。日本だと、なんで同じ日本人なのにそんなことやっちゃえるの?と日本人だから~なはず、という先入観を(無意識のうちに)もって、相手や自分の行動を評価される。

日本の白い何の変哲もない家電の中にビジュアル系クリエーティブ曲線とビビットカラーのドライヤーを紛れ込ませた違和感を感じるが、周りもカラフルな家電だと、すんなりと溶け込むのと同じ。

Creativeであることと、それをどうアウトプットするかは、別の次元の話だけれど、
「ユニークである」「クリエーティブである」ことを表面では賞賛しながら、深層心理では誰も(とまでは言わないけれど)それを心から歓迎してない、という表裏を持つ日本で、面白い感性をはぐくみ発揮するには、それなりのテクニックが必要だなぁ、と思ったのでした。
[PR]
by totoatsuko | 2007-03-12 12:46 | Comments(0)
line

音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite