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言葉のみ vs 言葉を含む アートセラピー 2

言葉のみのセッションとくらべて、GIMでは逆に 頭が心の体験についていけないケースもある。セッションを終えると、頭が 心の体験を 否定しようとする、忘却しようとする。

例えば、自分は、風を感じないようにしなければならない程弱い人間であるはずがない、
そんな防寒着なんか着ているわけがない、 と自分の一部は主張する。

かたや、心は知っている、風を感じていないことを、自分の肌の上に重ねたものの重みを、それによって、自分の体の動きが囚われている事を。

セッションでの気付き、セッションで起こった心の変容が 日常の自分の心の感じ方・行動の仕方、世界の感じ方・見方に影響されないように、もっともっと心を頑なに閉ざしてしまおうとする働きが、セッションルーム外で起こったら、それは、結構辛い場合もある。
セラピストの助けは借りられないし、自分の心が、異なる内なる声の主張に引き裂かれそうに感じる感覚が起こるかもしれない。

あるいは、無意識のうちに、心がセッションで起こったことを全く無視して、あるいは自分の日常生活を送っている意識から切り離して、生活を送り続ける。あたかも、セッションでは何も気づかなかったかのように、、、あたかも そもそもセッションに行ってなんかいないように。


心が変容する、 自分が本来の姿を取り戻すには、そういう痛みや葛藤を伴うこともある。
考えてみれば当たり前だ、長い時間をかけて、あるいは強い衝撃をうけて、まっとうな理由があって今の自分を形成してきたのだから。それは、多くの場合、自分が環境に適応するために、その環境をサバイブするために、頭が心をコントロールして、自分を変容させていく必然性があったのだから。

ただ、そうやって「適応して生きていくため」に無意識のうちにどんな風に変容してしまった自分がいるのかを自分自身が知らず、
自分が何を感じているかよく分からなくなっているまま、
「適応して生きている」だけでなく、
「自分らしさを、その環境でどう出していける、心から楽しめる」のか、
「どんな人生を作っていきたい」のか、
「そのためには、自分はどんな生き方が出来るのか」


頭で考えた理論だけで、自分を把握したり分析するのって凄く難しい。
だって、生きるって、心って、理屈じゃないから。
自分のなかは矛盾で満ちている。
アート という手段は その矛盾を 葛藤としてではなく、素直に受け入れてくれる。
矛盾 が 矛盾ではなく ただそうあるもの として表される、感じられる。
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by totoatsuko | 2007-02-26 09:46 | Comments(0)

言葉のみ vs 言葉を含む アートセラピー

d0065558_8332983.jpg東京で GIMセラピストはいないし、分析音楽療法をやっている人はいるけれど知り合いなので自分のセラピストに選べない、という事情から、ユング派の言葉のセッションに行っている。自分の心を定期的にチェックすることは、人の心を扱うセラピストとして最低限の義務だし、自分のためでもあると認識しているから。

言葉のセッションのみを受けている現在、正直なところ、とてもアートを使ったセッションをmissしている。音や色、イメージ、体を使って自分を感じる・発見するプロセスの感覚、深さ、感情の海に身を任せる感覚とか、色々な発見のテンポは、言葉のみのセッションでは感じ得ないものなのだ。

これは、NYにいた時、GIMセッションと ユング派の言葉のセッション・2人のセラピストのセッションを同時期に受けていた時も感じていたことなのだが。。。

こういっても、サイコセラピーを受けたことがない人には何のことやら分からないだろうから、もう少しかみ砕いて書いてみようと思う。

ユング派のセッションには、大抵夢を持っていって、それについて話をする。その夢はどんなものだったか言葉で説明し、セラピストが夢について理解を深めるような質問や解釈をする。当然忘れている部分もある。断片しか覚えていないこともある。(そういう点では、GIMセッションの場合、イメージはエラピストが全てノートにとっているので、見たイメージを思い出せないことはない。)

夢(イメージ) という形で表されている自分の今や、現在進行形の状態はなになのか、夢についてセラピストと話をしながら探ることによって、自分の深層心理をさぐっていく作業。夢を持っていけなかったら、その時心で思っていることとか、考えている事などを話せばセラピストが、言葉や自分が無意識に行なっているジェスチャー掘り下げて、自分に対する気付きを深める手伝いをしてくれる。

また、箱庭 という方法もある。その場で木や、人形などをつかって、何かを作る。そして箱庭をつくっていく体験・出来上がったものについて、セラピストと話をする。この方法は、すこしアートセラピーの要素が入っているように感じるが、あまりメジャーに使われていはいない。

私が、GIMや他のアートを使ったプロセスと最も違うなぁ、と感じる点は、言葉を扱っている分、そこに感情体験が入ってこないこと。頭で、言葉で 「悲しかった」と認識する、発見するのと、実際 「こころ」が 悲しい と悲しさの痛みや深さや手触りや色合いを を感じるのでは、かなり違いがある。感情は、時に言葉では表しきれない。言葉にしてしまった瞬間、その感情の本質が失われることもある。

感じないようにしている自分のみたくない・みたい感情や姿が音や色を使ったプロセスによって自然と浮き彫りになってくる。私の場合、セラピストと話しているだけでは、何か頭だけが回転しているみたいで、心が置き去りにされてるような感覚を覚えることがあるのだ。それで、頭をつかって心を頭に近づけようとするのだけど、うまくいくときもあるし、行かないときもある。そういう場合、家に帰ってから自分で色や音を使ってみて、セッションで話されたことを消化しようと試みる。

勿論GIMセッションでも、全然感情体験をせず、ただ動かないイメージを見ているだけ、という場合もある。でも、それ自体も心が「なにも感じていない」という状態を感じている・自覚する、という体験をしているわけだ。何らかの理由で、自分の心は「感じないように」している、周りから距離をおきたがっている、感じたくないことを内包している、という事に GIMのイメージ体験から「自分自身の心と頭」が イメージを振り返ってみたとき、自分の頭や理屈で分析するのではなく、また私にそう分析・決め付けられるのではなく、自然と気付く。

例えば、、、
何故 私はあんな心地よさそうな風の中にいながら、風の勢いを感じなかったのか?風を冷たいとも・優しいとも感じなかったのか?

GIMでイメージを見ている最中、私はこう質問するかもしれない:
「自分はどんな装いをしているの?」
ふと自分をみてみると、ものすごく分厚くて風を通さない体を寸分も動かせないくらい着ぐるみしている姿に気付く。こんなに 着ぐるみしていては、風を感じないのも当然だ、と自分で気付く。でも、何でこんなに自分は沢山着てるんだろう?何のために?何を恐れて?何を感じたくなくて?
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by totoatsuko | 2007-02-26 08:33 | Comments(0)

Play therapy (プレイセラピー)講座 ~遊びのもつ力

d0065558_1026859.jpg7月28日 ~ 8月5日の期間に、アイルランドから講師を招いた プレイセラピー講座が東京都内であります。

なんらかの形で私はお手伝いすることになっているのですが、
ご興味のある方は、ページをのぞいてみてください。

対象は、子供に接する人、子育てに興味がある人(母親でも、教師でも、看護婦さんでも)と、この領域のプロフェッショナルのようです。
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by totoatsuko | 2007-02-22 10:26 | Comments(0)

セラピーを受ける前と後

d0065558_7381029.jpgGIMセッションに継続して何度かきて、
心の深層、しかも それをある程度深~く掘り下げてプロセスし、
今まで知らなかった自分、自分の感情、行動パターンに気付き、実際生き方~世界の感じ方、人と自分との関わり方、心との関係 など、が変わった人 数人から

「セラピーに来る前、自分がどういう風に生きていたのか分からないくらい、自分が変わったのを感じる」というコメントを聞き、私も自分のセラピープロセスのなかでそう思った事を思い出しました。

しかも、この深い心のプロセスがどんな感じなのかとか、どんな変化なのか、言葉で説明できないのが、残念なところ。とても特殊な世界観・人生観の変わりかた、と言ってしまえばそれまでなんですけれど、なんだかそういうありがちな言葉で言い表すのは ちょっと違うような感じなのです。

でも、そんな印象的な変化がクライアントの内面から起こるヘルプができている、ということをクライアントからのフィードバックから再確認できて、セラピスト冥利につきました。
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by totoatsuko | 2007-02-21 07:16 | Comments(3)

結局は自分のため

d0065558_13385414.jpg前回の投稿で、「添加物をとったって、死ぬわけでも病気になるわけでもない」
と書いたけれど、じゃぁ、別にどんな人口調味料をどれだけ摂取したって構わないじゃないか、安いし、美味しいし、という別の内なる声が聞こえてきた。

でも、それは大事なポイントではないのだと気づいた。皆がやってるから、世の中の当たり前になっているから、問題にならないから、誰かが何かを言ってくるから やる/やらない のではない。

自分が、
自分の体にそういうものを取り込みたくない、
そういう心で食事をしたくない、
自分をそういう風に扱いたくない、
そう思っているから、添加物を取らないようにしたいと思っているのだ。

自分で心をこめて作った物を摂るか、無添加のものを選ぶ、という選択肢があるにも関わらず、「添加物を練りこんだ当事者が絶対自分が製造したものを口にしない」食品をあえてとるような事を自分に対してやりたくない。

こういうのって、自分の生き方や、まわりとの関わり方にと、とても共通しているな、と思ったのでした。


どういう選択をしても、どんな生き方をしても、結局のところ自分が納得できていれば、それはどんな形であってもいいのだと、私は思います。ただ、「自分が納得しているか、喜んでいるか、嫌がっているか」分かっていないことに気づかず生きているひとの方が世の中には多いような気がします。
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by totoatsuko | 2007-02-19 11:12 | Comments(1)

無添加物だけで生きるのって不可能?

d0065558_2123628.jpgニューヨークに住み始めて、育った過程で口にしてきた味や食物が当たり前のように見つからない状況で、自炊のための食材を選ぶようになってからでしょうか、口に入れるものに対して、意識が高まりました。

自分が口から体に放り込んだものは、全て自分の心と体に直接影響を与えていると、ハッキリと感じるようになってから、なるべく化学調味料が入っていないものを選んでいました。どこか遠出をするときは、外で色々買わなくていいように、お弁当を持参するようにしていました。その方が、お金も節約できるし、添加物はゼロだし。

機内食は、常温で1週間置いておいても腐らないほどの添加物が混ぜ込まれている、生野菜・果物も塩素が入ったプールの水と同じような消毒液をたっぷり浸透させている、と機内食を作っている人から聞いた数年前から、機内では、どんなに訝しがられても、No thank you, と言ってきました。事実を知ってから、生理的に受け付けなくなってしまったのです。

最近、かなり前から話題になっている、阿部 司の食品の裏側、という本を読みました。
いかに手を加えられた店頭の食品が、添加物まみれになっているか、
いかに、添加物表示に消費者が惑わされているか、
それはもう私の想像を絶するような事実ばかりでした。
気をつけている私ですら、相当の添加物を取っているのが分かりました。

コンビニでお弁当類などを買わない私ですが、おにぎりの米ですら、数種類の添加物が混ぜ込まれているとは、誰が認識してるでしょうか。

ほとんど腐りかけている真っ黒になった蓮根を、漂白剤に一晩つけて真っ白にして、新鮮なものとして売っているとは。。。

比較的高価なデパ地下の食品ですら、おあばあちゃんのてづくり、などと自然を強調した商標のものですら、ただの食パンですら、白い粉(化学調味料)が沢山含まれているとは。。。

そういえば、アメリカの調査で、どこぞのファーストフードにはアディクションになってしまうようなうまみ調味料を大量に混ぜ混んで、それを食べて育った人を、定期的にその味を食べたくなってしまうよう飼育し、お店の売上を確保してるのだとか。。。

又、日本での消費者調査によると、同じ品物・例えば干し魚・でも添加物が入っているものの方を、入っていないものより「おいしい」と感じる人が多数なのだそうです。通常、添加物が入っているものの方がそうでないものより割安ですから、商品開発社の努力は「安くて美味しいもの」という消費者のニーズに答えていますよね。

別に、添加物を摂取したからといって、死ぬわけでも、病気になるわけでもありません。
製造会社は、政府の決めた基準を守っています。

でも、化学調味料を摂取しないで食生活をおくるのがこんなに困難なことだという事実を知った事は、私にとってかなりの事件でした。Awareでないことは、生き方の可能性を狭めるけれど、それが食にも及んでいるんですね。これらの薬品を体に取り込まないためには、たまに食べるお菓子も、出来合いのものも、あきらめるか、それらしいものを自分でつくるしかないなんて、、、労力と時間を費やすか、割り切るか。。。

陳列されている多数のものが、私の食に関するポリシーに合っていないと気付いたなら
自分には、何にどういう風にお金を使うかという権利があるのだから、自分のポリシーと一つ一つの選択を大事にしながら生きていきたいな、と思います。
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by totoatsuko | 2007-02-16 17:50 | Comments(0)

経営が改善したら雇います

d0065558_9291827.jpg連休中に アメリカでチャイルドライフ スペシャリスト (子供ー青年の心のケアの専門)という資格をとって日本に帰ってこられた、
日本では看護婦さんの資格を持っている旧友と久々に会った。

日本に帰ってきてから、チャイルドライフ~ の知識と経験が生かせる就職先 (=病院)を色々あたっているのだが、ある病院長さんは、「今は経営状況がよくないから、それが改善されて、お金に余裕があったら雇わせてもらいたい」とおっしゃったとか。

でも、別にその病院に経営を改善する妙案があるわけではなく、
あるとしたら、有名なお医者さん(きっとお給料も高いはず)を引っ張ってきて、患者さんを呼び込むこと位なのだそうだ。

それを聞いて、その策・マインドではこれまでもそうだったように、永遠にこの病院に人は魅かれないだろう、と思った。どんなに「個人」の能力の高い医師がいても、院内のチームワーク、トータルケア、雰囲気の質がよくないと、患者さんの病院での「体験」に対するトータル満足度は上がらない。ああ、この病院を選んでよかった、とは思えない。

病院のケアは、問診や投薬、手術だけではない。手術が成功したって、その前後の病院スタッフの対応によっては、不信感が高まったり、回復も遅れたりする。体が弱っているからこそ、心のケアが大事になってくる。普段は気にしないような些細なことでも、心をいらつかせる、体の回復を遅らせる要因になりうる。

具体的な例でいえば、不必要な「鬱」も防げるし、「回復しよう」という体の動きを心が後押しできるし、病院のスタッフに対してむやみに不信感を募らせたり、怒りを覚えたりすることもなく、素直に不安な気持ちを彼らと共有し、それに対処してもらうことが出来る。

もし、この病院が チャイルドライフスペシャリスト という日本ではまだ知られていないけれど、アメリカの病院では当たり前のように配属されている人を設置し、子供の患者さん、その兄弟のケア、その子たちとどう接していいか悩んでいる親や看護婦さんの教育に院内で担当することが出来れば、それは、この病院の個性・ウリになり、患者さんがこの病院を選ぶ理由になる可能性があると思うのだけれど。

病は気から、なんてことわざもありますが、まだまだ病院の中では 心のケアが体の回復や、病院・医師・看護婦との信頼関係の構築に多大な役割を果たしている事を認識したり、それに対してお金を払おう、という意識は育っていないようで、とても残念です。
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by totoatsuko | 2007-02-13 09:29 | Comments(0)

スクールカウンセラー

d0065558_21594410.jpgスクールカウンセラーのニーズが切実であることが、教師の間でも、政府の間でも認識され始めているというのは、とても喜ばしいことだ。都会ほどスクールカウンセラーの設置校が多いという数字が出ている。

しかし、文部省が「出来るだけ多くの教師に、その役目を買って出て欲しい」と言っているのをきいて、何だ、何にもわかってないんだな、と思った。

そんな片手間に出来るような仕事じゃない。
素人かぶれがやると、生徒とカウンセラーともども心の闇へ転がり落ちてしまう、
場合によっては、周りの人間もその闇へ道ずれしてしまう、とても危険な行為である。

一緒に鬱になったり、おかしな関係になったり、おかしな関係を作り出し心を余計混乱させてしまったり。

教員として生徒に接した経験がどんなに豊富でも、
その人がどんなに人生経験が豊富でも、
その人がカウンセラーとして機能できるかどうか、というのは全く別の話である。

ただ話しを聞いてあげればいいってもんじゃない。
野生のこころ を扱っているのだ。
クライアントと自分の むきだしの心のぶつかりあいが起こるのだ。

カウンセリング・心理療法のプロのセッションを傍からみたら、ただ駄弁っているようにしか見えないかもしれない。音楽心理療法でクライアントと即興をやっているのを、何も知らない人が見たら、ただ楽器を使って楽しい、気がまぎれる時間をもたらしているとしか、その程度の表層しか理解できないと同じ。

しかし、そこにはプロでしか出来ないクライアントの状態の把握とデリケートな対応がまぎれもなく織り込まれているだ。
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by totoatsuko | 2007-02-07 21:59 | Comments(6)

野生性

d0065558_164051100.jpg人間も 生き物には変わりない。
なま身の肉体 という限りある生命を営んでいる点においては、野生の動物と変わりない。

でも、文明を築き 人工的な空間で 肉体が傷つくことや、その痛みを感じることが最小限にコントロールされるようになって、生きることのすざましさ みたいなものを感じなくても日々が送れるようになった。生きるための狂気、魔性、残虐性は自分でもどこに隠したか分からない心のどこかに収めておくのが現代人のエチケットになっている。

薬がない時代は、傷口が自己治癒力によって時間をかけて自然と癒えていくまで、その痛みと付き合いながら日々を送らなくてはならなかった。腫上がった肉や、朽ちていく自分の肉体を、今のように綺麗にガーゼなんかで覆うこともできず、そのグロテスクな自分の肉体から目をそむけることができなかった。

病によって気絶するほどの痛みを感じながらも 死ぬことも許されない悲痛な状態。それを傍観するしかなかった周りの人々。

どうしようも出来ないことに対する、引き裂かれるような心の痛み。


いまは全てが適度なオブラートをかけられ、自分の 表裏一体の生と死に畏れを感じることも無く、他人のそれを間近で触れることもなく 生物として生きている人間。その一方で、人工的な苦悩を次から次へと生産していく。

例えば戦争。
例えば殺しあうテレビゲーム。
例えば表層は美しく飾られているがその一枚下でおおきな渦を巻いている心のアンバランスが生み出す虐待・自虐行為・出口のない憎しみあい・殺しあい。

しかしそれらに対してすら わたし達は心を閉ざす。
自分達が作り出した痛みは一人歩きをはじめ、空気の密度をにごしていく。
行為として 生と死 を扱うが、心はそこに存在する痛みを感じていない。
本当は叫び声をあげている自分の心を他人事のようにとらえて、
本当は痛みを感じているのに、神経を切り裂いて、感じないようにして、
痛みなんか存在しないように振舞って世間体を保ち、自嘲的な甲高い笑い声を発し続けるだけ。
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by totoatsuko | 2007-02-07 16:40 | 日々感じたこと | Comments(0)

迷宮

d0065558_136361.jpg村上 春樹の長編を読んでるとき、私はその深い森に迷い込みこちらの世界からとても遠い所にきている感覚になれるのが好きだ。

今「海辺のカフカ」を読んでいるのだが、
下巻 p271に以下のくだりがある。

「迷宮という概念を最初に作り出したのは、今わかっているかぎりでは、古代メソポタミアの人々だ。彼らは動物の腸を -- あるいはおそらくその時には人間の腸をーー 引きずりだして、そのかたちで運命を占った。そしてその複雑なかたちを賞賛した。だから迷宮のかたちの基本は腸なんだ。つまり迷宮というものの原理は君自身の内側にある。そしてそれは君の外側にある迷宮性と呼応している。」

「相互メタファー。君の外にあるものは、君のうちにあるものの投影であり、君の内にあるものは、君の外にあるものの投影だ。だからしばしば君は、君の外にある迷宮に足を踏み入れることによって、君自身のうちにセットされた迷宮に足を踏み入れることになる。それは多くの場合とても危険なことだ」

「森にはいっていったヘンゼルとグレーテルみたいに」
「そう。ヘンゼルとグレーテルみたいに。森は罠をしかけてくる。君がどれだけ用心して工夫しても、目ざとい鳥たちがやってきて目印のパンくずを食べてしまう」


迷宮というものの原理は君自身の内側にある。
そしてそれは君の外側にある迷宮性と呼応している

わたしたちは、迷宮の中を手探りで生きているともいえる。
自分で人生を築いていっているようで、運命に翻弄されているかもしれない。
見通しが明るい道を歩いているつもりでも、気付いたらがけっぶちに立たされていることに突然知らされることもある。

自分のまわりで起こることは、自分と無関係に起こっているようで、実は繋がっていたり、
全くの偶然としか思えないことも、あとから振り返ってみれば必然だったと感じることがある。

わたし達は自分の全てを把握することは出来ない。コントロールすることも出来ない。
なぜなら、自分は世界の反映であり、世界は自分の内なる世界の反映であるから。

自分の心と体と魂の迷宮と世界で起こる現象は、時空をこえて 関係 している。
それには、常識から導かれた理論的な説明など必要ないし意味をもたない。
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by totoatsuko | 2007-02-05 13:06 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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