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カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

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金沢にて

d0065558_2338275.jpg香箱蟹d0065558_23383532.jpg
とろ







d0065558_23384443.jpg兼六園
d0065558_2338535.jpg







d0065558_2339395.jpgd0065558_23391489.jpg東茶屋町










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武家屋敷跡
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by totoatsuko | 2006-12-30 23:40 | Comments(0)

敬意をこめて

これも、年明けのセッションまで少し時間があいてしまうまえの、今年最後のセッションの一つで口にした事。

何も 自分のこころ と向かい合わなくても とりあえずは生きていける、大丈夫なフリができる。
何も 自分の弱い部分をさぐってみなくても 日常は流れていく。

でも、何らかの理由で音楽心理療法 GIMセッションに来はじめ、真摯に正直に自分と向かい合っている方たちに対して、私は特別な敬意を感じる。

世の中の多くの人は、大学、専門学校や教室などで、自分以外の事を学んだり、スキルや資格を身につける事に対して時間とお金を費やすことにためらわないけれど、自分自身を知りよりよい生き方をしようというために投資しようとする人はまだまだ日本では少ない。音楽心理療法にきたって、社会的になんの評価ももらえないし、資格や終了証をもらえるわけでもない。ただ、自分が自分のために行なう行為。

そのプロセスは、暗記とか、読書とか、頭を使うものではなく、心が揺さぶられる。時には、相当な心的エネルギーを要する局面に遭遇する。私は、自分自身の経験から、それがどれくらい大変な事か、知り・感じることが出来るので、全力で、クライアントがその局面を乗り切るのをサポートする。でも、実際その局面を歩いているのはクライアント本人。私はヘルパーでしかありえない。(もちろん、辛い時だけじゃない。素晴らしい感動を共有させてもらう事もある)

だから、心からクライアント達の勇気と正直さと辛抱強さに敬意を払う。

みなさま、よいお年をお迎えください。
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by totoatsuko | 2006-12-27 00:18 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(0)

もぐらたたき

d0065558_2145435.jpg先日クライアントとGIMセッションの中で話していて私が言った事。まぁまぁうまく例えることができた感じなので、ここで皆さんとシェアします。

自分が「向かい合うべきでない」と無意識のうちに決めている感情がふと日常で浮かび上がったとき、もぐらたたきゲームをするように その感情を即座にオートマティックに 心の奥底に追いやる、そうすることで、自分の感情によって日常生活に支障をきたされないようにしている、いわゆる自己防衛手段。

こういう手段を無意識の内にものすごい頻度で使用しながら日常をおくり、人生を歩いていっていると、自分の感情がなんだか分からなくなってくるだろう。たちが悪いのは、本当に無意識に行なっているから、よっぽどのきっかけがないと、それを行なっている自分に気付くことが出来ないし、出来たとしても、それを自力で変えていくことは難しい。悲しいシーンで涙が出なかったり、怒って当然のところで、さらっと流している自分。泣きたいのに、勝手に自己防衛手段が作動して、泣けない。

そもそも、もぐらたたき のように、感情が出てきた瞬間、何が土から顔を出したのか?どんな表情で出てきたのか?なんで出てきたのか?どんな大きさのものなのか?出てきたものを認識する間もなく、「出てきたから叩いて押し込める」ことをやっていると、自分が何を感じて生きているか分からなくなってきてしまう。


第一、自分はその感情をどうしてそんなに恐れているか、問うてみたことがあるだろうか?
「ネガティブな感情」は叩くもの、地中に押し込むもの、とインプットされて、それを鵜呑みにしているけれど、もしかしたら、自分はモグラと、その感情と友達になれる性質かもしれないのに。

GIMセッションでは、音楽とセラピストとの関係、自分の無意識から出てくるイメージが、自分の無意識の行動パターンを浮き彫りにしたり、例えば、瞬時に心の奥底に葬り去っていた感情を、手にとって見てみる・感じてみるプロセスが起こる。必死でモグラたたきゲームをしている手を休めて、自分の こころ を見てみる事によって、自分が無意識に恐れているものが、あんがい 怖くないものだったり、自分の大事な大事な感情の一部だと気付いていく。
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by totoatsuko | 2006-12-26 16:57 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(0)

ワークショップ in 金沢

d0065558_011474.jpg28日の午後、4時間ワークショップを金沢で行ないます。

27日に金沢入りして、竹久夢路が愛した湯桶温泉を楽しんでこようと思います。


日本の冬の移り変わりを感じながら日本の冬を過ごしているのは6年ぶり。
金沢に学生時代旅行に行ったのも、随分前。

とっても寒そうだけど、楽しみです。
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by totoatsuko | 2006-12-26 00:11 | Comments(0)

相手や環境が変わってくれさえすれば。。。

d0065558_23192459.jpgあの人が、
もう少し大人な対応をとれるようになったら、、、
もう少し人の話を聞くようになってくれたら、、、
自分の事を理解しようとしてくれたら、、、
昔の頃の関係に戻れたら、、、


今の状況がちょっとでも変われば、自分の状況がよくなるはずなのに、その人のせいで変われない、自分がHappyになれない、その人の存在・在りようによって、自分の幸せ度・満足度は改良されるのに。

自分の人生が、人や環境の在りようにかかっている、と思っている人は、世の中に結構いる。
そして、人や環境を変えようと自分なりに努力してるのに、変わってくれない、と嘆くか、半分あきらめるか。もうちょっと待ってみよう、あの人が自分の申し入れを今度こそ聞いてくれるかもしれないから。それに今回だけは特別なような気がする。その繰り返し。

もう長いこと、相手に求め続ける、自分でどうしようもないところを相手が埋めてくれるんじゃないか、と期待し続けて固定されている関係が、その関係を諦めた瞬間自分が求め続けた形に変わるんじゃないかと思って、やめられない。

そういう事が真実になる場合もあるかもしれない。
でも、「自分で自分の欲求を満たす事ができない自分」を他人に埋め合わせてもらいたい、それが関係がうまくいく、自分が満たされる条件だ、と思っていたら、永遠に幸せを見出せないだろう。

だって、自分の幸福感は常に変化するもの、自分が求めるものも、人生のステージで変わってくる。いままで自分を満たしてくれないと不満に思う相手が、今後、自分の変化し続ける幸福価値観に細やかに注意を払い、よりそい、それを満たすテクニックを素早くマスターすのは、不可能だ。(そもそも、自分で自分に対して出来ていないのだから)

だって、その人のこれまでの生き方や考え方、人との付き合い方は、長年培って築かれたものなのだから、あなた一人によって変わることは、まずない。変わったとしても、それは一時的なものか、Fakeなもので、相手があなたを喜ばせるためにとってつけたものにすぎない。

逆をかんがえてみたら分かりやすいかもしれない。
あなたは、相手が不満に思っていることを満たすために、自分の思考・行動パターンを変えて奔走するという変容を遂げることを、成長した、とか、自然体でその人との付き合い、充足感を感じて生きていると言えるか?と。


誤解しないでいただきたいのは、
人に甘えず生きていけるのがいいと言っているのではないこと。

自分の足で自分の人生を歩ける、作れる自分を持った上で、甘えたり甘えられたり、わがままを言ってみたり、頼ったり、相手を試したりするのと、

そもそも、自分の人生を誰かにおんぶしてもらって、行く先まで決めてもらって進んでいくのとでは、大きく違う。


相手が変わるのをまってあげている自分の寛容さや、心から楽しめない関係に身をおき続ける自虐的な自分を正当化するのも一つの人との関わり方だが、

自分で自分の要求を満たすために、
また、「常に誰かのせいにして生きている自分」に無意識のうちに繋がれてしまっている「相手」と、「自分自身」をその歪に囚われた関係から解放してあげるためにも、
もし誰かが~してくれたら、こう変わってくれたら、と今自分が感じていることに目を向けないで、希望的観測の関係の生きるのではなく、
こんな自分に 「自分」はどうしてあげれるだろうか、そう自分に問うて、行動を起こしてみてはどうだろうか?
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by totoatsuko | 2006-12-25 23:17 | Comments(3)

ワークショップを終えて

全7回の音楽療法ワークショップ@Studio Yoggy in 赤坂駅前が先週終了しました。

お一人だけ、全回参加された方がいらっしゃり、そのほかは、2,3回の人と、1回限りの人、と様々。全回参加された方からは、「継続しないと、本当のよさは感じられないと思う。願わくば、7回同じメンバーで心の作業を発展させていきたかった」とのコメント。かたや、一回だけ参加して、「とても楽しい、気付きの多い体験でした。」と満足された方も。

私の個人的な願いは、同じメンバーで関係を築き、安心して深いものも共有できるものを創っていき、そのなかで、より深く自分を知っていくプロセスを発生させたかったのですが、そもそも「音楽療法」というと、老人・障害者施設での楽しい歌の時間とか、ヒーリングCD的なイメージを持っている人が世の中のほとんどだ、というのも、参加者の方からのコメントから学び、それでは、お金を払ってまで参加する価値を見出さないだろうな、とも思いました。

それに、会った事もない「音楽療法士」と他の参加者に、自分の内面を見せたり、その人たちとそれを深く掘り下げよう、というプロセスに対して、「信頼」が存在しないから、拒否反応を感じるのかもしれません。そもそも、自分の内面をみる試み自体を、怖いことと思っている人もいるようです。

でも、やってみると、本当に奥深く、なんとなく生きている人の生き方・感じ方が変わりうるものなのですが。。。


Yoggy One-Off WS x 7. 2006

1. 11/4 今私が感じていることは?
― 個人マンダラ x 2 &グループシェアリング

2. 11/12 私の女性的なものは?
― ボディームーブメント
― 粘土を使ったワーク&グループシェアリング

3. 11/18 私の男性的なものは?
― ボディームーブメント
― 粘土を使ったワーク&グループシェアリング

4. 11/25 男性性と女性性をふまえて。
― 個人マンダラ&グループシェアリング

5. 12/2 社会の中の私とは?
― 個人マンダラ&グループシェアリング
― グループマンダラ&グループシェアリング

6. 12/9 今私が感じていることは?II
― 個人マンダラ x 2& グループシェアリング

7. 12/16 今私が感じていることは?III
― 個人マンダラ x 2& グループシェアリング
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by totoatsuko | 2006-12-23 17:31 | Comments(0)

別れ

d0065558_13162913.jpg先日、中学校を卒業以来会っていなかった人と会食してふと思った。「別れ」と一言でいっても、別れ方にはさまざまな形があり、別れた後の自分の心の状態も、千差万別だと。

死別、ケンカ別れ、同意の上の理性的な別れ、2人の問題をこえた外的要因による別れ。
別れに至るまでに二人で歩いた道のりと、別れの儀式(電話で?目をみつめあって?長い抱擁のあと?葬儀?卒業式?)によって、別れの色合いは随分と変わってくる。

悲しみや怒りにスタックして、前に進めない場合。
あまりにもそれらの感情が強いので、相手に復讐するとか、失ったものの大きさにただただ呆然として生きる気力を失うとか、何も考えられなくなるとか、生きることに悲観的になったり、人と接触したり、関係を築くことに踏み出せなくなったり。鬱になったり、身体症状(PTSDなどもそうだ)を伴うこともある。


それは、あまりにも受け入れがたい感情が自分を独占してしまわないよう、自分を壊してしまわないようにするための心の自己防衛反応。
相手に自分にある全ての非や悪、影の側面を投影することにより、自分が優位にたっている感覚を感じたり、
自分が別れによって生まれた感情によって崩壊してしまわないよう、自分の強い思い(怒りや憎しみや悲しみ)を、相手を殺したり、陥れたりすることに費やしたり、

でも、別れの際に生まれた感情を受け止めることが出来たら、別れた人との記憶が、別れの悲しみを乗り越えて、永遠となる。
その人と過ごした「時」の中で経験したこと、感じたこと、変化した自分が、別れた後も、恒常的に自分の人生に影響を与え続けていることを感じられる。肉体の存在や人間レベルでのコミュニケーションを超えて、魂のレベルで繋がっている事を感じさせられる程のもの。


生きていると、出会いと別れの繰り返しだ。セラピスト・クライアントの関係でも起こること。
だから、私はその終わりのプロセスをとても大事に扱う。毎回のセッションの終わり方、1シリーズの終わり方。そこに現れる、クライアントの終わり方、終わりに対する態度をセラピーの中で吟味することにより、無意識におこしていたパターンに気づき、変容させ、クライアントの日々の人との出会いと別れで編まれていく人生の色合いが変えることがある。

ある人は、日々の「終わりのプロセス」をとても簡素に行なっていることに気づいた。
電話を切るときも、さよならをいうときも、出来るだけ簡素に時間を使わず。相手が電話を切る前に、さよならを言う前に、電話を置く。時には、「さよなら」を明確に示さず、消えるようにその場を去り、その場にいる人と正面から別れを扱わなかったり。
日常生活していて、そんな自分のパターンには寸分も注意を払わなかったが、どうしてなのだろう?とセラピーでプロセスしていると、自分は別れや終わりが怖いのだと気づいた。別にもう相手と会えない訳でもないのだけど、なんとなくその瞬間が嫌なのだと。それは、過去の悲しい悲しみを無意識のうちに感じてしまうところから来ているのかもしれない、とも気づく。そして、その感情に気付く事によって、その人は、日々の出会いと別れの際に起こる自分の感情に注意を払い、時間をかけて「さよなら」を言ってみることを試みはじめる。そうすると、別れ際に相手と交される会話の中に、相手からの情感を感じたり、自分の相手に対する情感を伝えることが出来る様になったり、「別れ」をより意識して人と関わることにより、人との関わり方が変わっていった。

人間関係は、関係が続いている時だけのものではない。
セラピストと名乗っている人でさえ、その重要性を認識していない人が多いようだが、
別れのプロセスは、その後の自分の生き方・感じ方に「別れの前に起こったこと」の影響を左右するほど重要なものなのだ。




音楽とアートを使う心理カウンセリング Guided Imagery and Music (GIM) session についてはコチラ

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by totoatsuko | 2006-12-21 23:41 | 音楽療法セッション例 | Comments(0)

ありのままの自分の姿に罪はない

熱帯植物が、寒い場所で生きていけないことに対して、だれもその熱帯植物の性質を責めない。なぜなら、それは生まれつきのものだから。そうあるべくして、そうあるものだから。

それは、人間にもあてはまる。

人は、誰かにその存在や、性質を絶対的に完璧に否定される筋合いはない。
誰かの基準で、「自分」という人間のありように審判をくだされるなんて、もってのほかだ。
人は、ひとりひとり違うのだ。

そうはいっても、わたし達は、人との係わり合いのなかで生きているので、他人の目や評価を完全に無視することは出来ない。他人とのやりとりが、化学反応を起こし、それぞれの心に波紋をひろげ、また化学反応を起こしていき、関係が築かれていく。

それをふまえて、今日話したいことは、他にある。

わたし達は、他人に否定されて自分のありようを制限されたり、変容させられているだけではなく、自分自身が、自分自身に対して、どう関わっているのか、という事も大きい。

「ネガティブな感情を感じず、あるいは簡単に克服して、強く、いつもすがすがしく生きている人のほうが、ちっちゃい事にくよくよしている自分より、よっぽどマシな生き方をしている。」

「些細なことを気にせず、いつも人に優しく、にこやかに接していられるあの人にあこがれる。」

「いつも理路整然と物事を割り切り、どんどん仕事を進められる人は、それができない自分と比べて、優秀だ。」

「世界じゅうで繰り広げられる惨事の渦中にいる人の悲しみや怒りと比べると、私のそれなんて、ほんの些細なものだから、気にするべきではない。」

こんな視点は全て、人の表面的な行動や、自分の先入観を基準にして、自分の本当の姿を否定的に判断している。でも、自分の在りようを、人の在りようと比べて判断したり、批判する必要はないのだ、そもそも。悲しみを感じている自分の存在は、偽りのないもの。その悲しみの深さを、誰かの悲しみと比べて測るなんて、意味のないこと。感情は、本人にしか感じられないもので、自分が、悲しいと思ったら、それは悲しいのだ。そこに、大小はない。心が大粒の涙を流して泣いている、痛みを感じている、その自分の感覚が真実。

一見強くカッコよく生きているように見える人だって、本当の心の状態は誰にも分からない。
強いふりをして偽りの姿をギリギリに保って生きているだけで、一気に崩れ落ちてしまう瞬間の10分前の姿かもしれないのだ。

わたし達は、生身の こころ を持った 生物。
こころ は 生き物。理性ではコントロール出来ない、理性によって審判を下す対象ではない。
体力を失う事だってある。何もしたくないときもある。醜い姿になることだってある。
それが、生きている証。

誰かと比べたり、社会のルールをあてはめて自分の心の在りように批判的になるのではなく、自分の心の性格・性質・状態を そのまま受け止めてあげてみてはどうか?

いい・悪い、と判断しなくていい。
感じるままに、素直に。そうしたら、新しい自分との関係が築ける。そうしたら、世界が違って見える。
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by totoatsuko | 2006-12-20 23:56 | 日々感じたこと | Comments(0)

師走の季節感

いよいよ師走も佳境。
家とその周辺を歩いて日常生活を送り、個人セッションをやっている分にはそんなことを「体感」することがあまりない。感じても、スケールが小さい。

しかし週末、街のどまんなかに出かけ、人の波に飲まれ、クリスマス・新年の飾りや、セールス、街が持つ師走のあわただしさを、全身で感じた。

親、祖父母世代の家族や、地域や近所付き合いがあまりない生活だと、年末・年始に発生する膨大な雑務、日本の習慣(お歳暮・ごあいさつ・しめ飾り・年賀状・合同大掃除・合同おせち準備など)が同じスケールで発生しなくて、いつもとあまり変わらない気持ちで時間が流れていく。

そもそも、過去6年はアメリカベースだったので、そんな日本の師走のエナジーを感じなくても、「ここは外国だから」という割り切りで、あまり考えなかったのですが、

季節を感じるのは、季節の移り変わりだけではなく、文化・社会や人とのかかわりから影響される面も大きいのだな、と久々の日本の12月を過ごしながら気づきました。
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by totoatsuko | 2006-12-18 10:44 | Comments(1)

愛するものを失ったとしても、愛することを知らないよりましだ

「愛するものを失ったとしても、愛することを知らないよりましだ」とは、シェイクスピアの言葉。

でも、そう素直には なかなか思えない。
愛するもの(それは人、何か自分が手に入れたもの、自分が打ち込んできたものや、若さ、名誉、地位だったりするかもしれない)を失い、自分の大事なものを奪われるような、自分自身の存在を危うく感じ、この世に自分が存在する意味を失ってしまい、その痛みに打ちひしがれた人にとって、再び誰かを何かを全身全霊で愛することは、とても怖いことだ。また、失うかもしれないから。

失った痛みが強ければ強いほど、上の言葉に共感できないのは当然のことだと思う。

それでも、私は、その言葉に真実を見出す。
失った痛みを消化・昇華し、乗り越えたら、私は その何かをこよなく慈しんだ感覚、愛情が交されている、愛情を感じていた感覚を、まるで飴玉をゆっくりと舌の上に転がしじっくりと味わっているような、至福を感じる。

無二のもの。極上のもの。もう戻ってはこない、二度と同じものが起こらないけれども、自分全てをかけて、理屈や駆け引きなしに「愛した」感覚は、何度でも思い出して味わえる。思い出すたびに、幸せな気持ちにさせてくれる。人生で、心から何かを愛することが出来るなんて、素晴らしいことだと思う。

だから、愛する対象を失って、絶望や悲しみのどん底を感じている人のためになりたいと思う。
愛さなければよかった、とか、もう二度と誰も愛さない、なんて思わないで!
失った痛みは必ず乗り越えられるもの。
「愛せる」って本当に素敵なこと。

セラピストとして、その人にとって、永遠の極上のものとして自分の中におさめていくプロセスの一助になりたいと思う。
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by totoatsuko | 2006-12-14 12:16 | 日々感じたこと | Comments(1)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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