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カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

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d0065558_9163452.jpg秋祭りがさかんな時期になった。
神輿が町内の大人、子供に担がれ、町中をねりあるく。
笛の音がきこえる。

私が子供の頃体験していたまつりには、いつもこわーい鬼が登場していた。
すごく怖い顔をしていて、おおきな長い棒をもって、肩を横に振ってあるきまり、時折子供達の悲鳴を引き出す。

鬼は、平安時代の文学に登場し、日本人の心に棲みついている大事な存在。欧米人のイメージには決して出てこない、極めて人間にちかいが人間の世界とは別のところで生きているのが鬼だ。

王朝繁栄の暗黒部で生きる人々が無意識に抱えていた反体制的な怨念、雪辱、それらの情念が復讐の源となり、鬼になってその情念を実行に移す。ある学説によれば「おに」と「かみ」とが同義語だったかもしれない、というのは、とても興味深い。

鬼は、自在でありながら、その強烈な自己主張ゆえに、あまりに人間的な存在であるがゆえに、人間がつくった社会規範での存在を許されない私たちのもう一つの姿ともいえるのではないか。それは、自分の欲求や残忍さに素直で生きることを願ったゆえに、かえって阻害されてしまった者たち。

鬼は美女をあやめ、略奪し、人を殺すが、裏を返せば、それは古来から人間が行っていたこと、最近事件として取り上げられている人間行為と重なる。人間性が乏しいがゆえに犯す悪と、人間性あふれる悪。

近代に至って、鬼はもはや祭りや文学、舞台芸術の世界のみでしか生息していない架空のモノとして人々のあいだでは意識されているように感じる。しかし、鬼はまだ生きている私たちの心の影の部分に。それは、汚いもの、恐ろしいものとしてその存在そのものを拒絶されている。しかし、きょぜつされればされるほど、鬼の持つエネルギーは圧迫され、解放されるチャンスを狙っている。

秋祭り、鬼が正々堂々と道を歩ける数少ない機会、
人間として忘れてはならないものを、魂の存在を喚起しているように感じてならない。
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by totoatsuko | 2006-09-30 08:26 | 日々感じたこと | Comments(0)

広島道中

d0065558_817276.jpg早朝東京をでて深夜に帰ってきました。
到着してまず訪れたのは、年に1回くらい音楽療法のワークショップの場を提供してもらっている、マクロビオティックの食事を出すデイケア ゆたか (向洋駅から徒歩5分)へ。

食事として体内にいれたものは、自分の 血液、からだ、心をつくっていくもの。一回一回の食事d0065558_817528.jpgを大事にしていく意識は、この飽食事代に大事にしていきたいことの一つ。
大学に入って一人暮らしを始め、ピアノの練習の合間に料理の過程をたのしむようにになっていた私は、アメリカにいるときに出会ったマクロビオティックの考え方はとても共感しました。

デイケアの活動とお料理現場を見せていただき、おご馳走になってからパネルディスカッションへ。パネル体験記はまた後日。


d0065558_818774.jpgながい一日を終え、広島風お好み焼きをたべて帰路につきました。広島出身者としてはやっぱりお好み焼きは広島風です。

今日から2泊3日で休暇をとるので、少しの間ブログはおやすみします~。

よいweekdayを!
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by totoatsuko | 2006-09-27 08:22 | Comments(3)

自然をかんじること

d0065558_2215592.jpg週末露天風呂につかっていたら、
20代~30代前半くらいのグループが、蜂が近くをとんでいるときゃぁきゃぁ騒ぎ出した。
「蜂って水のなかまではいってこないよね」
露天風呂にむかってすっぱだかで裸で歩いている人も寒いだろうにたった一匹の蜂に恐れをなして途中で立ちすくんでる始末。

野外にいるんだから、蜂ぐらいとんでてあたりまえじゃん、
せっかくゆったりした気分になりたくて浸かっているのにー
と思いつつ、辺りの緑に目と耳をそむけたら、

こんどは、湯船に虫が入ってきたと大騒ぎ。
湯に浮かんでいる虫をエサに2グループの女の子達が意気投合して気持ち悪がる。

首をのばしてみてみると、何のことはない、ちょっと大きめのハエのような虫が死んで浮かんでいた。水をさっとひとかきして、湯船から虫を流しだしてやると、女の子達は一瞬唖然として、それから「さすが、母つよし~」と言う。

箸が転んでも可笑しい年頃でもあるまいし、
虫を流しただけで母性と勘違いされてはかなわぬ。
熱い湯に不意に突っ込んでしまって一瞬にして命をおとした小さな虫、
あわれこそあれ、怖さなどどこにもない、少なくとも私にとっては。

大自然を求めて出かける都会人が多いけれど、
あまりにも自然とかけ離れて生きているから、自然のほんの切れ端と触れ合うことも怖くなってしまったのだろうか?自然は 鑑賞する絵画のような存在になってしまったのか?

綺麗なものの裏には、必ず汚いものが存在する。
その異なる側面がブレンドされて、本物の感動をうむ美や風や光が生まれているのに。
想像を絶する、畏敬の念としか言い表せない、言葉にならないような、自分の力ではどうしようもないような場所、人、エナジー、
それは、ただ美の傍観者でいる限りはきっと味わえない生の要素であると思うのだけど。
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by totoatsuko | 2006-09-25 22:16 | Comments(0)

秋かぜ

d0065558_9153823.jpgあさ 窓をあけると すっきり 少し肌寒いくらいの風が 部屋をかけめぐる。まるで目にみえるかのように、ぐるりと部屋の壁をつたって、あたらしいひんやりした空気を運び込んでくれた。

あるクライアントの 「(暗くて辛いトンネルからやっと) すぽん と抜けました。一体 いままで何をしていたのかと思ってしまうほど、抜けてしまうと簡単だった」 という最近の言葉が 脳裏をよぎる。

すぽん という言葉の音が、あまりにもこれまで通ってきた重さとかけ離れていて
思わず二人で笑ってしまったくらい。

秋のかぜを体じゅうで感じて、深い深呼吸をする。
あの人が来はじめてはじめて見せてくれた、
心のそこからの ほんものの笑顔が心に広がった。

いい一日になりそう。
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by totoatsuko | 2006-09-24 18:19 | Comments(0)

Q&A スーパービジョンとは?

数年現場で実践されている音楽療法士の方から、以下のような質問をいただきました。
>スーパービジョンとは、どのような出会いがあり、成り立っていくものなのですか?

ご本人の了解を得て、同じ様な?をもっている人のために成るかと思い、私の返信をここで紹介します。

***
セッションをやっていて なんだかなぁ~ と思っている自分の心にとって、スーパービジョンはとても価値のあるものです。日本で定期的にスーパービジョンを受けている、その重要性を理解している現場の療法士は少ないらしいのがとても残念です。

アメリカにいたときの私の場合、大学や、自分の信頼する先生から自分と同じ分野で似たような理論・哲学をベース活動されている経験のある方をスーパーバイザーとして紹介してもらいました。そして、週1 あるいは隔週で会って、スーパーバイズを受けます。時間は1時間で、時給を払います。同じ人に継続して会う、話をすることにより、よりお互いを理解し、より必要なサポートを受ける事が出来ると思います。

膝を突き合わせて、真剣にお互いの言葉、音に取り組む二人の間に甘えは存在しません。自分は、その1時間みっちり聴きたいことをきいて、自分の糧にしようと準備 (ノートに疑問点を書き出す、セッションをもう一度細かく振り返り整理し、セッション中の気持ちを整理しなおしてみる、各クライアントの反応を整理したり、自分なりの分析を試みる、等)して望みますし、スーパーバイザーはお金をいただいているし、スーパーバイザーとしてスーパーバイズを受ける側の心のサポートを含め、その人がよりセラピストとして成長していくためのヘルプをすることに真剣に取り組みます。

スーパーバイズを受ける、ということで自分でする準備だけでも、いい振り返り、勉強の機会になります。

過去 私も日本で活躍されている方のスーパービジョンをした事をあるのですが、私のいう事が100%! という感じで、私がどんなに努力しても 対等な 対話にならず、とても居心地がわるかったことがありました。 私はスーパービジョンとは、スーパーバイザーの言うなりになったり、スーパーバイザーのやり方をそのまま真似するためのものではなく、自分の意見・考え・疑問を 信頼できる人にぶつけ、会話のなかで自分を磨くためのもの、だと 認識しています。

先生ー 生徒というと、日本では完全なる上下関係ですが、先生が正しいとは限りません。
なにより、そのセッションの現場にいたのは、先生でなく自分なのだから、自分しか分からない微妙なニュアンスだってあるのです。いかしスーパーバイザーの知恵と経験を引き出し、自分の糧にしていくかが、自分がプロとして成長していく鍵だと思います。


他に ピア(仲間、という意)スーパービジョン というのがあって、それは仲間同士でセッションについて話をし、お互いの経験に基づく客観的な意見を参考にしたり、心のサポートをし合います。共通の経験や言語、世界を持っている人と話をすること、話しを聞いてもらうだけでも、結構助けになったりします。お互いがより経験をつめば、より質のいい、ただのお喋りにおわらない 仲間との会話になるでしょう。(いいかえれば、愚痴大会で終わる可能性も大です)
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by totoatsuko | 2006-09-22 14:09 | Q&A | Comments(0)

次世代へ II

d0065558_7411078.jpgどの世界にも、とてもClose mindedな人がいる。
自分の持っている知識や経験を出し惜しみしたり、偉ぶったり。
あるいは弟子に自分が教えた知識や方法を発展したりアレンジをきかせるのを許さない人もいる。例えば、マクロビオティック (食のあり方の分野)のある先生は、自分のレシピを弟子にあげないし、自分が料理教室で教えた以外のやりかたを自分の弟子としてはやってはいけない、という人がいる。

先生、何を恐れているんですか?と言いたい。
どんなに同じレシピを使っても、作る人が違えば、食材の選び方も違うし(産地、時期、天候によって、驚くほどその物じたいの味は違うし、それが持つ陰陽のエネルギーバランスも違う)、創る人の手から食に伝わるエネルギーも違うし、調理する時に使う水や、ちょっとした火加減やさじ加減でも、出来上がりは変わってくる。レシピをあげたからって、機械にインプットするわけじゃあるまいし、全く同じものは他人には作れないのだ。

それに、自分の教えを忠実にまもって機械のようにしか機能できない弟子なんてつまらない。
自分が創ってきたものを、弟子の一人一人の感性をもって発展させていくのをみるほうが、私はよっぽどかエキサイティングだと思うのだが。

音楽療法の世界も同じ。
「本物を知っている人は(今の日本の音楽療法界では)嫌われる」と言った人がいたけれど、
先生と呼ばれている人たちの中には、自分が知らないことを知っていたり、自分と同調しない人がいたら、怖いと感じるひともいるらしい。自分の地位を脅かされるとか、自分の考えを否定されるかもしれない、とでも思っているのか。

私も 先生 と呼ばれることがありますが、
私の事を先生、と呼ぶ人が、私の知らないことを知っていたら是非学びたいと思うし、違う考えをもっていたら、もっと話を聞かせて欲しいと思う。立場上 先生 と呼ばれてしまっているけれど、私の持っているものはほんのちっぽけなものなのだ。私が絶対正しいことなんて、ありえない。

(ちなみに、最初 先生 と呼ばれるのにとても違和感がありました。過去六年アメリカで先生という立場の人と ファーストネームで呼び合ってきたから)

日本は、異質なものを持ってそれをオウラートに包まずそのまま出す人は、出る杭 としてうたれる、排除される。
それよりは、何々研究室で、何とか先生に習いましたとか、何処どこ会社で会社に認められて昇進してきました、という方が、所属がなくても自分に自信がありますっていうよりは、よっぽど受容されやすい日本文化だし、クレディビリティーがあっていいとされる。

わたしは、裸になってなお素直に自分を提示できる人の方に魅力を感じるけれど。

自分の経験や知識には誇りを持つべきだ。どんなちっぽけなものでも、それが自分が信じて築き創りあげてきたものなのだから。自分の一部なのだから。
でも、守りにはいりたくなるのは、本当のこころ自分に自信がないからなのかも。
だれもあなたからあなたの本質は奪えないのに。

そんなに自分の成果を守っていては、先の発展が学びに限界をかんじないだろうか。
無駄と思われるような経験、自分より未経験と思える未熟な人からも、心をオープンにしていれば、沢山の事が吸収できる。例えば、いい音楽療法士になろうとおもったら、音楽療法の事ばっかり勉強しててもダメなのだ。いい親になろうと思って育児書読み漁っても狭い親になるだけ。ビジネスマンとして何かを成そうと思ったら、オフィスに長時間いたって、仕事仲間と毎晩飲みにいったって、ビジネス本読み漁ったって、無理なのだ。

これしかない、って守りにはいったら世界は閉ざされると思う。
「自分」のもつ可能性だけに固執せず、心をひろく、意識をオープンにすれば、自分はもっともっとひろがれる、次世代へ自分の道のりがつながっていく。
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by totoatsuko | 2006-09-21 17:33 | Comments(0)

次世代へ I

d0065558_16564912.jpg少子化の問題が近年日本でとりたてられて、ようやく政府が動きはじめている。
数字の上では1%位上昇したらしいけど、現代女性の子供を産み育てることに対する意識が変わったとは思えない。

今日は、文楽を見てきた。(今週はInputイベントで忙しい)
文楽の東京公演は3ヶ月に1回だから、逃すわけにはいかない。今月は、朝、昼、夕の幕を使い 通し仮名手本忠臣蔵。朝の部は、塩谷判官が切腹し、家老の大星由良助が無念の城明け渡しをするところで段切り。胸を締め付けられるような思いで舞台を後にする。

本来なら人間国宝 吉田玉男が判官を操るところ、病のため代役。80台後半なら無理もないことだが、次世代に伝えることの大事さを切実に感じる。文楽は国営で、歌舞伎と違ってお家の世襲のようなものがない。希望は誰からも受け付けられ、選ばれた者は国家公務員となり日々文楽の腕を磨き、50歳位でやっと一人前になるそうだ。

昔より男女の給料差や昇進のチャンスの格差は狭まった。
女性がオトコ社会において影響力を持ちやすくなったし、世界に羽ばたく女性も増えた。
キャリアを求めて頑張っている女性は多い。
私も自分の学びたいことが一杯で、やりたいことも、やってみたいことも一杯で、
結婚したいとか、子供を育てたい、なんて思ってもいない時期があった。
自分の時間やエネルギーを誰かのためにすっぽり明け渡すなんて、自分の今そこにある興味あることに手一杯で、考えられなかったのだ。
だから、結婚しない、子供を産まない女性の気持ち、私なりにわかる。

でも、子供を産んで初めて感じた。
自分一人で出来ることなんてちっぽけなものだと。
仮に私が何か大きな成果を社会や世界にもたらすことが出来たとしても、その過程をそばで見守り、共有してくれる人がいなかったら私の心はきっとさみしいし、その成果を次世代へ発展させてくれる人がいないと、その成果は死滅するか忘れ去られ、小さくまとまったまま完結するのみ。未来がない。

人間の成長のごく初期の期間を責任を持って見守ることは、本当にエネルギーがいる、時間もお金も費やす。一人の時持っていた膨大なやりたかったことや、今も刻々と増えていくやってみたいことは、ほんの少しづつしか進まない。でも、私は人生こんな時期を持つことが出来てよかったと思っている。なぜなら、将来のある人間を育てることは、他に私が出来うる事に匹敵、あるいはそれ以上 未来と可能性を含んでいるかもしれないからだ。

自分の子供に、自分がやっていることを受け継いで欲しいなんて、全く思わない。
世間一般がよしとする、世間一般が幸せと評するレールを走る手伝いをしようとも思わない。
私がいいと思う人生を歩んで欲しいとも思わない。それは、自分がやればいいこと。
ただ、この個が成長していく過程で見せてくれる様々な驚きと発見、
そしてこの個が将来どんな世界を繰り広げていくのか分からない未知の可能性をそばで見ていられることは、何にも変えがたい。自分の子供をもたないと体験できないこと。
その「自分の子供」は、所詮 違う人間だが、その生の出発点で私と共有した世界、私が培ってきたものをたっぷり吸収し、それを土台として、その個が発展していくのだから、そして、もしかしたら私の肉体の生命が終わっても、生き続けこの世界とのかかわりを作っていき、次世代の一部となるのだから。

出来れば、この個が生きていく上で自分を見失いそうになったときに立ち返れる「芯」のようなものを作るサポートを、私から自立していくまえにやってあげたい、と思うが、それも私のエゴと希望にすぎない。私が思っている「芯」とは全く別のもの、価値観で、この個は生きていくかもしれないのだから。
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by totoatsuko | 2006-09-21 16:56 | Comments(0)

平凡であること

d0065558_14413324.jpg小学生の時、毎日日記を書くのが宿題だった。
毎朝提出して、先生が短いコメントを書いて返してくれた。

ある日「今日は平凡な一日だった。(続きはおそらく、どう平凡だったかという記述だったはず)」と書いたら、先生が「今のあなたには分からないかもしれないけれど、平凡であることが何よりの幸せなんですよ」とまぁ、教訓めいたことをコメントされたことを覚えている。別にそのとき自分は「つまんない」と書いたつもりはないけど、先生は先読みして「小学生にはこの価値がわかんないだろう」とでも思ってコメントしたのかも。

ともあれ、私にとってこの先生とのやり取りは20年くらいたった今でもきれいに思い出せるものは、単に自分の心を知ったつもりのコメントを書かれたのが嫌だっただけなのかもしれないが。

昨日、歌舞伎観劇の前にCafeで時間を潰していて、ふとこの言葉を思い出した。
現在の私の生活は、ある視点からみたらとても平凡といえる。
毎日のルーティーンに適度に追われ、適度に自分の時間をもち、適度に家族との時間もある。
毎日大きな変化があるわけではなく、色んな感情体験をするが、波乱万丈なものとは言いがたい。一日 一日をみればあんまり意味を見出せないけれど、それでも、自分の人生のなかで、とても特殊な意味合いの濃い時期の一つであるだろうな、という感覚を漠然ともっている。

もしかしたら、過去6年で初めて海外に住み始め、学校で学び、アメリカ社会で働き、家族も出来、また日本で再出発ときくと、色んなことしてきたんですね、と思う人も居るかもしれないけど、なんとなく自分のなかでは、それらの出来事は全てつながっていて、特に人生をひっくり返されるようなこと、、、もあったか、、、でも死ぬような思いはしなかった。例えば、戦争に突然巻き込まれ、何もかも失うこともなかった。

しかしざっと事実だけならべてみたら「平凡」な日々でも、
細分化して今歩いている道をミクロでみたら、結構波乱万丈といえるかもしれない。
言い換えれば、生きることは 感じ方次第で随分自分にとっての色合いが変わってくる。

そして、波乱万丈な状態を生きているときは、その波に飲まれ、波を乗りこなすことに自分の集中力が注がれて、波の性質とか波が向っている方向、辺りの景色や風を感じることは後回しになりやすいだろう。

多分、「変化」することや「他人と違うことをする」こと自体には意味がなくて、
それに至る過程や、変化を受け止める「自分の感じ方、受け止め方」によって、
それらが人生における意味を生じさせるのだと思う。

髪を切ったからって、
引越ししたからって、
模様替えしたからって、
転職したって、
そのイベント自体は、自分の本質を変えてくれない。
短所を長所に変えてくれないし、急にモテるようにもならない。(まぁ、その変化につられて寄ってくる人がいたとしたら、それはあなたの本質ではなく変化した表面しか見てないのだ)
給料がよくなっても、人生のいつくしみ方を知らない心のままでは、本質的な豊かさは手にはいらない。

ここまで、手がキーボードを打つままに文字をまとめる意図なく綴ってきたが、開演時間が近くなってCafeを離れる時おもったのは、
ドラマチックな出会いや恋とか、人生とか、成功という点を求めて生きているうちは本当の人生の醍醐味は味わえなくて、今この瞬間をめ一杯吟味しながら生きていたら、結果は勝手についてくるんだろうな、という事。傍からみたら「平凡」な人生も、その人にとってはとても豊かなものでありうるだろうな、と。一生懸命自分の人生を歩くこと、それはもうそれだけでその人にとってはドラマなのだ。

そう自分の中でまとめて、生死をかけた恋模様を描いた 菊畑(きくばたけ)、籠釣瓶花街酔醒(かごつるべさとのえいざめ)と演目にならべる秀山祭九月大歌舞伎へと、足をむけたのでした。

牛若丸に秘める恋心を寄せる高貴な皆鶴姫も、佐野次郎左衛門も、花魁 八ツ橋も、当事者はドラマを作ろうと恋しているのではなく、心に素直に立ち回った結果のドラマがうまれた。もちろん創り話だけど、この場合。

ともあれ、最後の鬼揃紅葉狩(おにぞろいもみじがり)ふくめ、昨夜の3幕は全て色鮮やか、色気、男気、街人情たっぷり、義太夫も新曲が披露され、どっぷり日本の民衆芸能を楽しませてもらいました。
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by totoatsuko | 2006-09-20 14:41 | Comments(0)

ぷれいす 東京 ~ Stop AIDS

d0065558_22312970.jpg第20回 日本エイズ学界学術集会 (11月30日 - 12月2日)をホストするのは、この20年で初めて、医療専門家ではない 民間団体 ぷれいす 東京だ。

先日 日本のエイズを取り囲む状況を知りたくて、
又、私が出来る事の可能性を 探っていきたくて、
こちらの事務所にて話を伺ってきた。

ここ10年でAIDSを取り巻く状況は凄く変化したそうだ。
一昔前は、HIVポジティブになると死がすぐそこ、だったけれど
今は抗HIV剤を服用すると、数十年、普通の生活が送れるようになった。
それによって、いわゆる世間からの「同情」や「危機感」みたいなのが薄れて、寄付金も公的機関の配慮も薄くなってきているとか。一つ例をあげると、緩和医療病棟では、抗HIV剤を服用しているひとは受け入れてもらえないのだそうです。

そして、心の専門家として一番印象的だったのは
AIDSに関する「知識」を学校で教えても、ほとんど性交渉による感染の予防に繋がっていないという実態だった。「知識」は、詰め込まれただけでは実際の人間関係の中で生かされない。だから、予防には知識の提供だけではなく、2人の関係特有なものを理解し、心に働きかけるアプローチを常に考えているとのことでした。

片方がコンドームを使って欲しいと思っても、片方が拒否した時、きちんと事の重要性を話し合えない、相手の心を尊重できない関係であったり、
自分だけは大丈夫、という根拠ない信念をどこかでもっていたり。

これって、ゲイのカップルだけの問題じゃない、 どんなカップルにも存在する普遍的な問題だよなぁ、ってお話を聞きながら思いました。恋人が望むことは叶えてあげたいとか、恋人を喜ばせてあげたい、という気持ちから、心の底では不本意だけど、unsafe sexをしてしまう人っていっぱいいる。それで相手が喜ぶなら、と。

大抵、自分が犠牲にしている自分自身の重要性を軽視している結果だ。
相手が望むなら死んでもいい、というならそれでもいい。
病で苦しむ相手を看病しているときなんて、本当にかわってあげたと切実におもう。

でも、自分の心を大事に思ってくれない人、
あるいはうまい事言って愛してるフリをしてる人のために死んでもいいと思える?
しかも、死ねずに心と体の傷をずっと背負って生きて行かなくてはならないかもしれないのだ。

Unsafe sexを強いる側は、多くの場合自分が相手に何を強いているのか、そこまで深く考えていないし、それを許すほうだって、自分の心、体、人生をちゃんと見てない状態であることに気づいていない。

教科書つかって、一般的な倫理は道徳は、こう有るべきなんですよ、なんて学校でおしえてもらっても、実際どれだけの教師が、「知識」以上の、実際決断を下すときに発生する激しい葛藤やどろどろした心、それを乗り越えた経験を生徒に分かりやすく伝えることができているのだろうか?

心の価値観は、実際自分が色んな局面を経験し、そのひとつひとつで立ち止まって感じ、考え、心の葛藤を実体験し、自分で自分の倫理観、道徳観を、しいては価値観を築いていかないと、生きていくうえでの芯みたいなものは形成されないだろう。
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by totoatsuko | 2006-09-17 13:46 | 日々感じたこと | Comments(2)

クリエーティブ アーツセラピー国際会議

10月7.8.9に東京で開かれるクリエーティブ アーツセラピー国際会議

国内外から幅広い分野のアートセラピー臨床者、名前をみるとそうそうたるメンバー。
かなり質の高い内容を提供する集まりになるので、興味のある方は是非是非!
日本では絶対体験できない 体験型芸術療法ワークショップ、講義が盛りだくさんです。

私は2日目にGIMのワークショップやります。
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by totoatsuko | 2006-09-17 00:13 | Comments(2)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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