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怒り のエナジー

d0065558_11123813.jpg怒り、という感情には、すごいパワーをもっている。
喜びとか、興奮とかよりも、果てしないパワーがある。

スピノザは、悪を働こうという意志が、もしそれを実行したら罰せられる、自分に悪が起こる、という恐怖感から、人々の悪の実行を妨げている。しかし現在の地球上最大の国家はそれ以上の悪が生じることを恐れなくなり、彼らが憎むものに対して容易に害悪をくわえることが出来る、といっている。爆発寸前の怒りを内包する人が何も恐れなくなったとき、悪は実行に移される、スピノザは言っているわけだ。

とにかく怒りは、心を鬱の闇に引きみ人生の色合いを変えてしまう事も出来るし、殺人(他殺、自殺)も起こせるし、テロだって起こせる。ネガティブな結果だけではない。見返してやるっ!とこれまで誰もやらなかったような事業や人生の歩き方をするきっかけになったりもするし、その怒りで困っている人を助ける役割を始めるかもしれない。

ある人から聞いたのは、
今「女社長」としてもてはやされて、成功してるように見える人たちの中には、
そういう過去の「怒り」が起爆剤となって、今の地位が導かれた人が結構多いのだそうだ。
だから、一見満たされているような彼女達の心は、実は色々もやもやしたものがあるらしい。何で自分はこんなことしてるんだろう?とか、自分はこのまま走り続けていいんだろうか?とか。心から充実した人生と感じられていない。
怒りは、ものすごいパワーを持っているから、その人が死ぬまで走り続けさせることは出来るだろう。でも、無意識のうちに怒りに走らされている人生なんて、悲しくないか?ピュアな自分は、もっともっと他の事をしたいかもしれない。

そんな、怒りにあやつられている自分をなんとかするには、過去怒りを感じた自分、傷ついた自分ををなんらかの形でケアしないと、何処まで成功しても、その感覚はぬぐえないだろう。どんなに人から羨まれる生活をしていても、自分の心が感じる「気持ち」は、絶対値であり、決して人から評価されて価値が決まる比較値ではありえないから。

全ての種類の感情を思いきり“感じ”ることにより、その感情から自由になれる。
感じること=感情に振り回されるのではない。感情を無視するから、心の片隅でそれが増殖し、広がり、自分が知らない内に自分を支配していくのだ。

まず自分で自分を感じないと、
何が嬉しくて、何が悲しくて、何が絶対許せなくて、何に対して憤りを感じるか、何が大切か、、、どんな感情だっていい、

感じてみないと、自分が誰なのか、自分の価値観は何なのか、本当の自分はどうしたいのか見つけることはできない。
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by totoatsuko | 2006-08-30 17:16 | 日々感じたこと | Comments(0)

待つこと

d0065558_111253.jpg「怒り」(だけでなく、「悲しみ」や「不安」など、どんなネガティブな気持ちも)を感じるのは、人間として当たり前だし、大事なことだと思う。

でも、それに支配されてしまっては、人生が狂ってしまう。
それを人間は知っているから、無意識のうちに、自動的に、それらの感情を押さえ込んだり、感じないようにしたり、あるいは芸術に、仕事に、自室に、自分の殻の中に引きこもる。親や社会の多くの人がそういう手本を示しているし、そのほうが手っ取り早い。

以前、クライアントの一人がセッションでかなり心が辛い局面を歩いている時に言った。
以前のように(セッションで心のプロセスを始める前)、殻に閉じこもって生きていくほうが楽なんじゃないかって、思ってしまう。こんなに辛い思いをして自分を知ったところで、どうなるんだろう、何がかわるんだろう、って。


その気持ち、私も通ったことがある道なのでよく分かる。
それは、ものすごいエネルギーを消耗する。
(だからその人をしっかり支えられる専門家が生まれる必要があったのだと思う。)

例えば、
蓑虫が、その蓑をやぶり蝶になって羽ばたくプロセス。
何パーセントかの蓑虫は、そのプロセスの途中で力尽き、宙をはばたくことなく死んでしまう。
正に、生をかけた道のり。
深層心理のプロセス (GIMセッション)では、これに値することがおこる。


私は、彼に言った。
あなたにとって、このまま殻の中に引き返して生きていくのか、どうするのがいいか、私には決められません。
でも、2つ言えることがあります。ひとつは、今から殻の中に引き返しても、セッションを通して少し殻の外の世界の可能性を知ってしまった自分は、以前の自分が殻にこもっていることを知らなかった自分と同じような気持ちでは殻の中にいられないでしょう、ということ。

2つめは、その辛いプロセスは絶対に無駄ではなく永遠に続くものではなく乗り切れるものである事です。世の中Quick fix = 一瞬で効果が出るもの、変化がわかるものに全ての価値観がおかれつつあるけれど、簡単に曲がるものは、簡単に元にもどってしまう。でも、私はとことんあなたのペースで歩き続け、決して見捨てない、最後まで一緒に歩き続ける覚悟はあります。

鬱の薬を飲めば気分はすぐ落ち着くかもしれないけど、心の問題は未解決のまま。
薬をやめれば、また鬱になりやすい。

人間の成長もよい例。どんなホルモン剤飲んだって、催眠をかけたって、時間を飛ばして生きることは出来ない。どんなに科学が発達しても、胎児は34週くらいはお母さんのお腹の中にいないと、そして最初の試練、死ぬ気で産道を通るか、お医者さんに頭を引っ張り出されるかしないと、この世に生まれてこれない。(その過程で死んでしまう赤ちゃんもいるし、その誕生を命をかけて見守ってきた母体も命を落とすこともある)

どんなにIQが高い人間でも、若さを保てることはできないし、逆に、成熟した味のある人間になるには、時間が、様々な人生経験が必要だ。

時間が早く流れるのこの時代に「待つ」ことは、
一昔以上に苦痛なものなものになって来ているようだ。

しかし、わたし達の心は、そう簡単に変わらない。
何か新しいものが生まれるとき、何かが大きく変わるときは、時間が、辛抱つよさが必要なのだ。
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by totoatsuko | 2006-08-30 17:16 | 日々感じたこと | Comments(0)

音楽家による夢想的“療法”論 [2]

私の仲間が始めた、狭義では音楽療法について、広義ではそれを超えることについてざっくばらんなお話。新しい投稿とコメントが始まっています。

Music therapy online

わたしも、たまにコメント出しています。
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by totoatsuko | 2006-08-29 13:36 | Comments(0)

創作和太鼓演奏

学会 2日目の朝は、仙台を拠点に活動する和太鼓と笛のグループによるパフォーマンスがあった。この学術大会の大会長が開催大学の作曲の教授だったことから、彼が作曲した、ピアノと和太鼓の曲を3曲、それから、そのグループ(口頭で説明されたけれど、残念ながら聞き取れなかった。こういう事こそ、大会の抄録でちゃんと表記して欲しいのだけど)オリジナル4曲を披露してくれた。

グループオリジナルの曲は、どれも素晴らしいエネルギーが音となってひろがり、心を打たれた。和太鼓は、牛の皮(メスは絹、オスまたはホルスタインは木綿に例える)を鋲や紐、タンパックル等で張りとめてつくられ、撥(ばち)と呼ばれる木の棒で皮を叩いて演奏される。 皮には基本的に数回の出産を経た雌牛が最良とされるが、大きなものでは、雄牛の皮が利用されることもあるそうだ。

人間だと、数回出産するとたるんじゃうけど、牛はどうなんだろう?そのたるみが、あるいは、生命を内包しはぐくんだ皮というのは、なにか格別のものがあるのだろうか?

太鼓を叩いている人の表情は、時に怒っているようにも見え、太鼓を通じて、牛が、いや生命が魂の振動を爆発させているように感じたりもした。

そんな張り詰めた高揚の中で演奏が終わると、拍手大喝采。
そのあと、「このまま終わるというわけにもいきませんから、私とピアノの教授によるNHKなどでよく演奏されるドボルザークの連弾曲を連弾します。」と大会長。

なんでそうなるの~??(ガクッ)
どこがどうなって、このまま終われないのか、全く理解できない~。
わたしは、あの生命の躍動感にまだ身震いしているのをぶち壊されたくなくてその場を脱出したかったのですが、いかんせん舞台から2列目の真ん中に陣取って周りを埋められていたので身動きとれず。。。

あくまでも、予定道理自分がピアノ演奏しないと気がすまないその感覚、
よくわかりませんでした。

あーー、和太鼓と笛はよかったのに!
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by totoatsuko | 2006-08-28 21:33 | 日々感じたこと | Comments(0)

多田 房代さんの講演

ドイツで活躍されている多田 房代さんの講演@学会では、涙しました。

症例を3つ、オーディオテープやビデオテープを使って紹介してくれました。
そこには、血が通っていました。喜びも、悲しみも、怒りも、最悪の状態も、包みこみ、存在を認められ、人間である証である感情が生き生きと描かれていました。音楽が、生きていました。

厳しいお母さんに育てられた中年の女性がセッション始めた頃は、ナイーブな少女のような声を出していました。それが、どんどん声が自由になっていく。厳しい母親にNoと言ったことがなかった、いえなかった彼女の声に、強い意志が生まれていく。

自閉症や、他の病名をつけられている中年の男性は、時に破壊的で自虐的な行為を繰り返していたけれど、セッションを通して見つけた、自分の中の光を見つけ、幻覚で見ていた悪魔が消えていく。

小児麻痺で生まれてきて、言葉がうまく喋れない青年は、それまで言葉のボタンを押して「おなか減った」等の自分の欲求を伝えてきたけれど、自分がどう感じているか伝えるなんて事は出来なかった。ただ、「もうどうでもいいよ」というのだけが口癖だった。
でも、セッションを通して、「おかあさん、聞いてる?ぼくだよ。きいてる?」と、最近再婚するので忙しいお母さんに、語りかけ始める。セッションを始めて6年後、施設の都合で、セッションが打ち切られることが決まり、最後のセッションでは、休暇中の施設の責任者に向って、「どこいるの?僕たちはここを離れることはできない。なんとかして。」と、セッションを始めた頃よく言っていた「もうどうでもいいよ」という人生に対して投げやりな態度はなかった。

私は、彼らの何年にも渡るセッションの過程で起こった事のほんのひと場面から、私なりに彼らの心のプロセスを感じとり、涙がとまらなかった。ああ、ほんとうに大変な道のりを歩いてきたんですね。ほんとうに辛くて、悲しくて、許せなくて、どうしようもなかった時もあったでしょうね、でも、それが分かるから、あなたのそのひと言、声の重みを感じる。

また多田さんの語り方から、ボディーラングエッジから、セッションの映像に写っている彼女や彼女の声から、彼女が、クライアントとの一瞬一瞬に耳を研ぎすませ、体で、魂で、その存在と対峙しているのだと感じ、心を洗われた様な気持ちになりました。
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by totoatsuko | 2006-08-28 14:00 | 日々感じたこと | Comments(1)

音楽療法学会@仙台

d0065558_1652990.jpg「感」と「知」をかんがえる
というテーマだった今年の日本音楽療法全国大会に週末行ってきました。
(参加しても、あんまり、そのテーマのメッセージが理解できなかったですけど)

仙台は涼しくて、気持ちよかった!
また、弱小チームながら、黒字経営をしている楽天イーグルズで働いている友人の計らいで、偶然その夜やっていた千葉ロッテ(去年の優勝チーム)との試合をバックネットで観戦。特に野球ファンではありませんが、とっても楽しめました。奇跡の逆転勝利だったし!

楽天の野球場は、さながらテーマパークのようで、野球場の周りは屋台がいっぱい出ていて、さながらお祭り気分。場内には、本当に美味しそうな売店が軒先にならび、目移りするほど。これだったら、遊園地にお出かけ気分で野球を見に来たくなるだろうな!と思わせられるくらい。既存の野球場の概念を破る、素晴らしいシカケを生むのに一役かった友達にそのカラクリを解説してもらいながら観戦して、感服させられました。

また、二日目の学会を早々に切り上げて行った、兵庫の有馬、愛媛の道後と並ぶ名湯といわれる秋保(あきう)温泉で日本帰国後の温泉初め。
熱めのにごり湯、これまた、とってもよかったです。


そして、肝心の学会ですが、
以下は個人や団体を中傷する意図は全くないとても私的な感想であることをご了承の上、お進みください。

データで、評価が2-4に上がったのは分かったけど、
誰かさんのQOL(クオリティー オブ ライフ)の定義3点の表記もあったけど、
音楽が、死に向って歩くなま身の人間とその家族の心のプロセスにどう関わったか、私には何も伝わってきませんでした。だから、
「本人とその家族が死ぬことに対してかかえる、怒りや悲しみは、どの様に扱われたのですか?」と、真っ先に、手をあげて質問したのだけれど、

「音楽によって、本人と家族の会話が増えたり、本人が家族を思いやる言葉かけが増えたりしました。お答えになりましたでしょうか?」と、対応され

「はい、どうもありがとうございました。」と言うしかなかった。

私がききたかったのは、「音楽」が、どういう働きをしたのか、ということなのだ。
本人が繰り返しリクエストした曲があったというならば、その曲が本人にとってもつ意味は何だったのか、その歌を通して、何を伝えようとしていたのか、そして、セラピストはその曲、音楽、音、自分自身を使って、どんな本人の心のプロセス促をしたのか、ということなのだ。

自分達のセッションがはたした役割を、時間性(時間を忘れること)、関係性(セッションを通して、人との関係を考えるきっかけ)、自立性(音楽を味わい、セッションがあることが近い将来への希望を生む)、スピリチュアリティー、と言うのならば、聞かせて欲しい、説明に出た

本人が音楽がたのしくて時間を忘れる事と、本人の体が死んでも時をこえて存在しつつげる魂との関わりを

本人の人との関わり方が変化することで、刻々と変化し、死に向っている本人の心と体と魂との関係の変化を、

本人が来週のセッションを楽しみにして元気が出ることで、その人の死の色合いがどう変わったのかを。

時を忘れて音楽に興じ、家族と会話が少し増えて、来週のセッションが楽しみになること。それが、死を目のまえにした人の魂に触れたというのならば、もっと説明して欲しい、具体的に。

だけど、聞けなかった、「お答えになりましたでしょうか?」と誠実に問われて。
会場がその答えに対して私が感じている怒りのようなやるせなさや、不満を感じているようには全く感じなかったし、
優等生の模範解答のようで、人の死の道のりに本気で深くかかわった人が体験する血のざわめきを、感情の嵐を、その人からこれっぽっちも感じ取れなかったから。もし、本気でそのプロセスにかかわったなら、本気でその人の悲しみや怒り、そして今生きていることの喜びに寄り添い共感したならば、あんな棒よみでセッションを語れないはずだ、と思ってしまうのだ。とはいえひとそれぞれですので、そう人も世の中には存在するでしょう。

自分のブログで、こんなグチを書くのははばかられるのだけれど、
これが、私が学会を通して1つしか聴講しなかったいい訳なのです。
他のもみれば、人間の感情が感じられるものもあったのかもしれません。
でも、あまりにも疲れてしまいました、心とか、スピリチュアリティーとか、それらしい言葉をいっぱい並べながら、それとセラピスト自身がきちんと向かい合っていないのが主流である状態に。

私は、色んな形の音楽療法があっていいと思っているので、
誰がどんなセッションをしようと、勝手だと思っている。
誰に文句いわれるものでもない。

ただ、私にとっては、コトバだけ聞こえがいいものを並べて、中身が全然違うことをやっているのを見ると、ただやるせなくなり距離を置きたくなってしまうのです。抜け殻の茶番をもっともらしく見てる観客の中で共感することが出来なくて、脱力してしまう。


残りの時間は、友人と過ごしました。私と似たような体験をきいて、自分一人がこう感じているのではないんだと思って、すこし嬉しく思いました。

また、和田さんの講演は感動しました。
(続く)
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by totoatsuko | 2006-08-28 13:36 | 日々感じたこと | Comments(6)

グリーフカウンセリング II

娘たちは、今のところ緩和医療を選ぶ方向に傾いている。80半ばにもなって、ただでさえ生きるのが辛いといっているのに、化学療法なんかしたら、本人はどんなに辛かろう、と。それに、そんな過酷な過程をへても、どんな質の人生がどの位長引くのか、知れたことではない。


この話を聞いて、私はまず本人の言葉に驚愕した。
自分の体の治療をどうするか、という意思決定権を、完全に放棄しているのだ。娘達を心から信頼しているにしてもだ。どうにでもしてくれ、と。苦しむ治療だけはイヤだ、位でもいい、自分の意思表示があってもいいはずではないか? そう思った。

大事な自分の体をどうするか、どんな死に方をするのか選べるというのに、
あえて、自分でない誰かに決めさせるのだ。

これは、自己責任という概念を小さい時から叩き込まれたアメリカ人には理解不能だろう。

また、私は本人は自分が癌だということを、絶対に感づいていると思った。誰も本当のことを言わなくても。そういうことは、理屈ぬきに、魂が感じるものなのだ。そして、私が娘達にそれを指摘すると、「そうかもしれない」と言う。自分の父親に自分達が嘘ついている、芝居をしていることがバレてるかも知れないとおもっても、それを演じ続けているのだ。また、本人も、無知なじいさん役を演じているわけだ。


日本でのホスピスや自宅での尊厳死のケースを海外に住んでいる時からきいていたので、それが日本人のスタンダードになって来ているのだ、と私は錯覚していたような。

アメリカで、死にまつわる家族のシーンに何度も関わったけれど、こんな茶番劇を死という真剣な場所でやってる人たちには、私は出会わなかった。アメリカにいないとは言わない。でも、日本程多くはいないだろう。


しかし、娘から話を聞いているうちに、これが彼らのベストな選択なのだ、というを感じた。
いいのだ、面と向って真実を伝え合わなくても。
これまでのように、意を伝えるときは、やんわりと回りくどく、お互いを察しあうことで、お互いの真意をしっているつもりになる。それでいいのだ。そういう劇を人生かけて、真剣に演じてきたのだから。悲しい話を、悲しく演じていたら面白くもなんともない、という日本人の美学だろうか?

彼らは、自分達の気持ちを、内に秘めたままで、その内部で死を迎えるプロセスをそれぞれが行なっている。死に対する恐怖とか、ちょっと過激すぎる気持ちを、うまいこと心の奥底のどこかに居場所を見つけてやって、心の均衡を保つことなんて、日本人はアメリカ人よりも慣れっこだし、日常化しているのだし。

(この感覚は、久しぶりの歌舞伎を観劇中にも、ふつふつと思い出された。自分の中にも、日本人として生まれたときから埋め込まれた、そういう感覚があったのだ、が、長くアメリカに暮らしていて、忘れていたようだ。)

アメリカ人の場合、ベースに個人主義や、自分の人生は自分に選択肢があって当然だし、選ぶべきだと思って生きている人がおおいから、上記の例のような茶番を真剣に続けてはいられない。


ああ、これから沢山、私は、母国で学ぶべきことがある、と心から思った。
私の今現在もっているグリーフカウンセリング、そして音楽療法の手法も目的も、全て日本という風土と民族性と文化、それらから生まれるニーズに基づいて、進化させていかねばならない。
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by totoatsuko | 2006-08-24 21:53 | 日々感じたこと | Comments(1)

グリーフ カウンセリング I

グリーフ カウンセリング (Grief Counseling), とはカウンセリングの中でも、
大切な誰かを病などで失いそうになっている人や、
突然、誰かを失った人、
胎児、赤ちゃん、子供、青年、成人、伴侶、恋人、老人を失った人、
そして、死を目の前にして生きている当人の心を専門に扱う分野だ。

私がアメリカで取得した グリーフカウンセラーという資格は、日本には存在しない。

何故なにのかといえば、まだ日本は死の周りで起こる心のプロセスとか、死をどう受け入れるのか、という議論がアメリカほど活発でないからかもしれない。

例えば、日本とアメリカでは、インフォームド コンセントを取り巻く状況が随分違う。

ターミナルケアに入っている人たち、あるいは病によって死が近づいている人と家族がいるとしよう。アメリカでは、ほとんどの医師達は、本当の診断名を伝えるべきだし、どうしたら本人や家族に決定的な打撃を与えない伝え方が出来るだろうか、という議論も起こしている。

患者本人も、本当のことを知る権利があると思っているし、治療法も最終的には自分が選択するものだと思っている。グリーフカウンセラーの役割は、そんな重大な事実と、それに付随して生まれる激しい感情(怒り、悲しみ、どうしようもなさ、なげやり、など)を一人で抱えこむのではなく、一緒にどうにかその事実と感情と共存して、死 と付き合うサポートをするわけだ。

死の色合いがかわれば、それまでの人生の色合いまでもが変わりうる。
死があっての生で、生があっての死なのだ。
極論を言えば、人間は、生まれたときから、そのいつくるともしらない「死」に向って歩きはじめている。


アメリカで今まで活動してきていたのだが、
最近、ある日本にすむ日本人のエピソードを聞いて、深く考えこんでしまった。

話はこうだ。
ある中小会社の社長をしている80代の男性。妻は20年前に癌で他界。
最近は、体力も衰え、「生きるのはしんどい」と娘2人に常々漏らしていた。

数ヶ月前の検査で、癌が見つかった。
でも、本人には、良性の腫瘍と説明し、ラジオ派で焼く治療のみ施し、癌の成長を静観した。
他の転移している部分の癌は、薬でコントロールできそうだったので、処方箋を出した。
年が年なので、通常癌の進行も遅いはずだという見方もあった。

数ヵ月後、その後の経過をみる、という名目での検査では、癌はもっと広がっていたが
本人の自覚症状は、すこし内臓に不快感を覚える程度のものだった。

検査のあと、本人は、「切るんだったら(手術するんだったら)早くしてください。余計なものはきってもらったほうがいい」と、医師に言った。しかし、娘達に対しては 「お前たちのいいようにすればいい。」と伝えた。

医師が娘達に提示した治療の選択肢は2つ、
化学療法(放射線)か、
緩和医療(癌をなくす治療はせず、本人が不快感(例えば痛み)を訴えたら、それを緩和する処方)する。

(続く)

*またデジカメが壊れてしまい、写真欠乏中。。。
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by totoatsuko | 2006-08-24 21:38 | 日々感じたこと | Comments(1)

最近の音楽療法活動

こちらでケースの紹介を随分長い間していませんが、
個人セッション (GIM)は実践しております。

セッションの事をここでご紹介するには、守秘義務の問題もあるし、自分の中である程度消化しないと、かけないのです。もし、ケースの事が読みたい、と思っていらっしゃる方がいらしたら、どうかあしからず。(過去の記事、みてみてください)。

あと最近していることは、招いていただいてワークショップしたり、
人にあって、何か面白いことできないか、お話したり、

来月から、子供~思春期、産婦人科の部門を持つ病院に、客員研究員としていかせてもらうことになりました。パートタイムでぼちぼちと。まだ全然リサーチモデルなど考え付かないのですが、日本の現場に出て、日本人のニーズを感じる事によって、患者さんやその家族のかたに提供できるプログラムなどをかんがえていけたらなぁ、と思っています。

新しい試みなので、わくわくします。

仲間の皆様、いろいろ助けてくださいねー。
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by totoatsuko | 2006-08-23 22:23 | Comments(1)

「私はどうするのがいいんでしょう?」「わかりません」

d0065558_15345293.jpg河合 隼雄が倒れたのを知ったのがきっかけで、昔読んだ カウンセリングを語る(下) を本棚からひっぱりだしてきた。

そこで、最近感じていることを、とてもうまく表現してくれいている段落があったので引用します。

「よい方法はありませんか」といわれて、「ありません」というのは、よい方法というのは脇道なんです。ちょこっと~うまいことやるのは、脇道なんです。それをやらずに、この~と生きることはどういうことなのか、なぜ私は~が嫌いなのか、なぜ私は死んでいくのか、とまっすぐ歩かないと、善光寺*には行き着かないわけです。

だいたいみんな善光寺参りはしんどくて、みんな脇道に行きたがるんです。その脇道のことを、みんな「何かよい方法はありませんか」といわれるんです。そのときだいたいわれわれは、「ありません」と非常にはっきり答えるわけです。つまり、「この道をいきなさい」ということを言うわけです。この道というのは、いちばん苦しい道です。ただし、私も一緒にいきますからというのが、カウンセラーの仕事なんです。(p.197)


楽になりたい、この状況からどうにか抜け出したい、とおもって私のところに来る人は多い。
そして、上記のようなやりとりが起こる。
なんとか助けてほしい、自分ではどうしようもない、何処にむかったらいいのか教えて欲しい、というクライアントの叫び。
気のきいた一言を求められているのが分かる。
しかし、安易な答えはその人が自分なりの答えや道を見つけだいしていくプロセスの妨げにしかならない。なぜなら、私の一言を神の言葉のように奉ったり、その言葉によりかかり、安心感を感じ、私に依存してしまったら、その人のそれまで生きてきた (自分に問いかけず、自分を信じられない、自信がもてない)パターン=心の問題を引き起こしている原因の一つ、を繰り返すことに私は加担しているか、その人が本来持っている答えを道を探し当てるエネルギーの芽を摘み取っているにすぎないからだ。


以前にも書いたけれど、心の旅のプロセスは、心が「楽」になることが目的でも、その過程では結構辛いセッションもある。それは、デトックス(毒だし)の様なプロセス、あるいは抗がん治療でがん細胞を殺すけれども、他の細胞も苦しめられる状態、と例えられるかもしれない。

そんな壮絶な心のプロセスを乗り切れば、ほんとうに人がかわったような、美しい生まれ変わりが、世界の変化が現実におこってくる。


*「牛に引かれて善光寺参り」という話がある。とても欲の深いおばあさんが、ほしていた布を隣家の牛が角にひっかけて走り出し、それを必死に追いかけていくうちに、信濃の善光寺に牛がはいっていき、それについていったおかげで、善光寺にお参りして宗教的な体験をする。 向っているうちは何をやっているのか分からなくても、あるいは、ただ単に欲にかまけて布を追いかけていても、導くものについていけば、本来の目的以上の何かに行き着くことがある、という示唆。
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by totoatsuko | 2006-08-22 16:05 | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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