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音楽の力からクライアントを守る

d0065558_1384720.jpg未亡人で子供のいない90歳半ばのクリスティーナ (仮名)。Hypertensionで、鬱の気も混乱してる気もちょっとある。でも、とてもプライドをもって生きている感じがする。

いついっても綺麗に身だしなみをしている。

彼女との時間の歌は、固くちじこまっていたり、過剰にDefensiveになっている心を、春の雪解けのように、やわらかくし、流れをうんでいた。

今日は、賛美歌を歌った後、神の話になり、それがよりパーソナルな話に向っていく。
いかに彼女っが夫を愛していたか。いかに人生を生きてきたか。
「Too fast」 「あっという間だったわ。みんなちっちゃくて、それが育ち、あっというまにこの年になる。」「too fast, too fast, too fast...」

「I've never talked about my past to anybody.」 (誰にも、私の過去を話したことなんかなかったわ。) 彼女の目が少し潤んでいるようにみえる。

「今 悲しい気持ちになってる?」 彼女は答えない。ただ、私の方をじっとみている。

「それにしても、ありがとう、そんな大事なご主人との事を話してくれて。素敵なご主人だったんですね。」するとそう言った瞬間、彼女の目の色が変わり

「I don't do any bussiness with you. I don't talk about my past.」 (あなたの売り込みにはのらないわよ。私の過去なんて、なんにも喋ってないわ。」

その急な彼女の表情、態度の変化に一瞬戸惑ってしまったくらい。
一体 音楽の後のわたし達の会話の中で、何が彼女に起こったのか?


私の理解は:
音楽は、本人が気付かない内に素早くその人の心に達し、揺り動かし、流れをうむ。
いままで一生懸命守ってきたものを、明るみにする力がある。

それゆえ、とまどいも起こる。
泣くつもりなんか、怒っている自分を認めるつもりなんかなかったのに。
セラピストに対する信頼が十分でなかったり、本人が、本人の向かい合っていなかった見ないように避けていた側面を見る準備ができていなかったら、そういうことが起こる。

クリスティーナの態度の変化が、一つの例。
自分の見たくない感情と向かい合うには脆すぎる状態にくわえて、私との時間を単に音楽を楽しむものとして捉えていたので、実際音楽がやったことに、私の彼女の流れ始めた感情に対する態度に、戸惑ってしまったのだ。「私に一体何をしたの?何で私は、こんなこと話しているの?こんな気持ちにさせられてるの?」と。

音楽の力は計り知れない。
それゆえ、それを専門に扱うわたし達は、本当に注意深くそれを扱わなくてはならない。
クライアントのテンポを見計らい、何が今のクライアントに受け入れられて、受け入れられないのか、把握してセッションの流れを決めていかなくてはならない。

しかし、どんなに注意深くても、音楽の力をコントロールすることは出来ない。

思いがけず、クライアントの心を深く揺り動かすことが多々ある。
そんな時、心を揺さぶられたクライアントが、その感情の波に飲まれてしまわないよう、
それまでに確かな信頼関係を築き、言葉とその存在で、音楽の力からクライアントを守る、とは語弊があるけれど、
- Container -その感情に向き合うために必要な、 安全な空間と場所と機会 -を提供することもセラピストの役割の一つ、といえるだろう。
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by totoatsuko | 2006-04-29 12:54 | 音楽療法セッション例 | Comments(0)

いびき

d0065558_1242691.jpg痴呆のシェリル (仮名)は、いつ尋ねていってもベットに横になっている。

話しかけたら、私の顔をみるけれど、しかめっ面をしたり、なにか言おうとして口をうごかしたり。
残念ながら、私には、彼女の声が何を伝えようとしているのか分からない。

今日もいつものように、布団を胸のあたりまですっぽりかけて、ベットに横になっている。
私が話しかけている間、足を動かしてしかめっ面をするので、
「足が痛いんですか?もしかしたら、音楽をきくと、リラックスできて、痛みもやわらぐかも。
でも押し付けたくないから、まず一曲だけ歌いますね。もういい、と思ったら、その時点で教えてくださいね。」

彼女がどれだけ理解しているか定かではないけれど、
分かっているつもりで、普通に喋る。 ただ、いつもより少しテンポを緩めて、彼女の肩の辺りに手を触れながら。

体に触れる、というのは結構意味があるコミュニケーションの一つなのだ。
その人のバウンダリーにもよるので、触られるのが嫌な人もいるから気をつけないといけないけれど、肌のぬくもり、感触は、NurturingでComfortingなもの。

生まれたばかりの赤ちゃんが、ただ母親の体にぴっとりくっついているだけで、心臓の鼓動をかんじるだけで安心するのと似通っている。

話を元にもどすと、
彼女に私がこれからやることを説明してから、歌を歌い始めた。
そうすると、彼女はゆっくりまぶたを閉じ、口をあけていびきをかきはじめた。

注意深くきいていると、いびきも波がある、まるで音楽のように、盛り上がりと終焉がある。

歌がおわりそうになると、だんだんいびきも静かになってくる。

一曲歌い終わって静寂が訪れる。
静かに尋ねる、「もうちょっと歌いましょうか?」
反応はない。目をつむったまま。

私は、それから何曲か、彼女のいびきとともに歌をうたい、別れを告げて、彼女のベットの元を去った。その時彼女は高らかにいびきをかぎつづけ、深い眠りにについているようだった。

音楽の流れに彼女のいびきものっかって、不思議な私と彼女のダイナミックスが生まれていた。体の状態は「寝ている」という、見た目はコミュニケーションしない状態だけれど、彼女のいびきは明らかに音楽に呼応していて、その発見に心の中でクスリ、と微笑んでしまった。
寝てるふりしてるけど、実は、私と音楽にしっかり関わっているじゃないの!と。

音楽が間に立っている。間接的だけど、私と彼女が音楽のなかで出会って会話しているかんじ。

音楽が終わる頃には、どうやら彼女は深い眠りのかなたに行ってしまい、私が去るのも気付いていなかったようだけど(気付いていたかもしれないけど)、それはそれで深い安らぎを得られてよかった、と思ったのでした。
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by totoatsuko | 2006-04-29 12:42 | 音楽療法セッション例 | Comments(0)

よび方

d0065558_921026.jpgふと、私は、日本に帰ったら、クライアントにどうよばれるのだろうか、と思いをめぐらせ日本で活動している音楽療法士の友人達に尋ねてみたら、色々興味深い見解を示してくれました。

皆さんは、日本でクライアントの方にどう呼ばれていますか?

音楽療法士をどう呼んでいますか?
苗字で? 下の名前で?それとも「先生」?

クライアントとの関係 (個人/グループセッション・クライアントの年齢)にもよるのでしょうが、よび方は、ある意味その関係の入り口のダイナミックス、あるいはクライアントのセラピストに対するプロジェクションを表しているような気がします。

英語では音楽療法士に対して「先生」とは呼ばないので、日本語で「先生」とよばれるのに違和感があるのだけど、こちらに住んでいる日本人の人は、「先生」って呼ぶ人もいて、私に対する態度もいわゆる「先生」(オーソリティー)に対するような感じの人もいます。もちろん関係が続いていくと、その態度も変化していくのですが。

「先生」って、考えてみたら面白いことば。
権威の象徴にもなりうるけど、「先生軍」に属してる - あるいは「あっち側」に属している人をよぶ時、いつでも誰でも使える便利なもの。政治家、作家、学校の先生、医者、弁護士、税理士、、、

誰にでも使えるという点は、とても便利でもある。
名前忘れちゃった時とか、「先生」って呼べば、いちいち名前を確かめなくても、その場が切り抜けられる。あるいは、「先生」というある意味クリアーな位置づけをすることにより、「自分が信じる、世間でスタンダードとされていると思っている」言葉づかいを使えばまちがいないし、とりあえず世間のスタンダードな「先生」にたいする態度を取っていれば、まちがいない、という側面もある。

お互いの気持ちを思いやり、腹を探り合い、言葉で話して全てを明らかにしようとしない、日本人の知恵なのかも。

アメリカでは、「個」を表に出しながら人とコミュニケーションとっていくので、「先生」という匿名なよび方がない。必ず、名指し。「先生」という名前のもと、自分自身を適当にほか一般の「先生」に属するものとしてあやふやな立場でやれない。

呼び名は、呼び名。
入り口が「先生」であれ、「アツコさん」であれ、「ナダタさん」であれ、ニックネームであれ関係が続いていけば、そこにリアルな感情が行きかってくる。ただ、何処から入るかによって、その道筋がすこしかわってくるだろうなぁ、と思うのです。

私を「権威」としてみた人にとっては、いくら私が「わたし達は対等ですよ」と言葉で音楽で伝えても、自分の中の私の権威に対する壁が何かのきっかけで壊れないと、そうはならないだろうし、

私を「オンガク屋」としてみた人にとっては、私が音楽を演奏せず、話を通じて接している時は、何でこの人歌うたってくれないの?と思い、わたし達の間におこっているダイナミックスに戸惑うかもしれない。「オンガク屋」のくせに、なんで私の心に深くきりこんでくるの?と。

そんなクライアントの感情の出現・それの変化は、セラピーのプロセスの重要な材料になる。
その人は、どういう関係を私にプロジェクトしているのか、プロジェクトされた関係は、その人の人生にとってどういう意味を持ってきたのか、、、

クライアントがどの様に、どんなニュアンスで呼ぶか、掘り下げていくと、いろいろな発見があるはずだ。
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by totoatsuko | 2006-04-26 09:24 | Comments(2)

Nymphea Reflection

d0065558_13405471.jpg今日はボストンシンフォニーを聴きに行った。

最初の演目は、2001年にフィンランド人のKaija Saariahoが49歳の時に作曲した、Nymphea Reflection。手元のパンフレットによると、パリで一時期コンピューター音楽を学び、それを極めた後、アコースティックに戻ってきた人です。


Nymphea は白い睡蓮、という意味なのですが、その意味を知らずに音を聞いていると、
バイオリンの細かく刻むバイブレーション、全体を通して聞こえてくる不協和音というコンセプトに収まらない生活の中で聞こえてくるおと。たとえば布ずれの音とか、空気が変わる瞬間の音とか。アコースティックの楽器がこんな音を出せるんだ、という驚き。

コンサートホールの椅子のなかで私が感じたのは、音としては、ハリウッド映画のサスペンスものの、怖いシーンが近づいている場面。反面、目から入る情報は、典型的なオーケストラ、楽器たち、黒い衣装に包まれた演奏家たち、歴史あるコンサートホール。このギャップが、私をとても不思議な気分にさせた。

何故なのだろう?
目と耳を研ぎ澄ませて"Here and now - 今この瞬間"を存分に感じつつ、考えがめぐる。

一つは、緊張感やRestlessness感を促す音が映画のように数分で終わるのではなく、永遠に6楽章続いている事に対する、私の心の居心地のわるさだろうか。しかも、映画音楽を連想する辺り、私の目は自動的に、音にあった映像を求めていたのかもしれない。しかし、見えるのは真剣に演奏する演奏家達だけ。

又、私のマインドがつたっていける、ある程度予測可能な旋律というのがなくて、何処にもいかない感に対する漫然とした感じもあった。確かに水面に写る睡蓮は、その環境によって色合いが変わるが、 何処にも行かない。

会場の雰囲気も、次に演奏されたベートーベンのピアノコンチェルト1番とは、随分異なった。
音楽が、観客を抱擁していない、のみこんでいない。
そう、映画を見ているのと同じ。あそこで起こっていることは、あっちの世界で、わたし達は、こちらの世界からそれを傍観している、という音楽との関係。

言ってみれば、まさに 水面に写る睡蓮を、岸から見ているような感覚だったといえるかもしれない。

それと比べて、私の場合、スタンダードクラッシックをきいている時は、その中に入っていける。例えば、ベートーベンの田園を聞いていると、例えば、田園を見ているのではなく、その田園を歩いて風や土の匂いを感じる事が出来る。あるいは、田園とは全く違う場所に、いるかもしれないが、要は、イメージを第三の創造物として捉えるのではなく、私のマインドは、ある程度できあがった枠組みの中で流れ、展開していくメロディーに、抵抗なく身を任せ、自分自身がイメージになってイメージを体験しやすい。

よく「何故GIMはクラシック音楽しか使わないのか?」と言われるのだけれど、クラシックしか使ってはいけない、という決まりはない。GIMでは、クライアントが言葉やしぐさで伝えてくる心の状態をよりよくイメージ体験の中でプロセスするために、適切な音楽が選ばれるのだが、今のところクラッシックの音がArchpyticalに受け止められやすい、というこれまでのGIMセラピストの経験上の示唆なのだ。私も経験から、同じように考えているのだけれど、その理由が今日少し分かったような気がする。
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by totoatsuko | 2006-04-21 13:40 | 日々感じたこと | Comments(1)

帰国予定

d0065558_10221637.jpgイースターのロングウィークエンド。
桜が満開です。

ところで、この夏に、日本、東京に引き上げることになりました。
日本でも個人セッションをやって行きたいと思っています。
興味がある方は、ご連絡くださいませ。letsmusicing@gmail.com

日本の皆様、どこかでお会いする機会があるかもしれませんね。
よろしくおねがいします。
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by totoatsuko | 2006-04-17 10:21 | Comments(4)

カウンセリング と サイコセラピー の違い

d0065558_530594.jpgカウンセリング とサイコセラピー ってどう違うの?

それまで、深くこの2つの違いを考えたことがなかったのですが、何故、表題の問いが頭をよぎったかというと、「カウンセリング」を経験した何人かが
「カウンセラーが、私の言ったことを、整理し、言い直してくれることによって、自分の視点がかわった。」
「話をきいてくれる人がいる、というのはいい。きいてもらってすっきりした。」
「頭で考えていることを話している感じで、心の深いもつれには触れなかったです。」
という内容の事を言ったひとが何人かいて、私がGIMセッションでやっていることと、カウンセラーと名乗っている人がやっていることは、随分違うような気がするのだけど、実際、その違いは何なんだろう、と思ったからです。

たまたま、私のところに来た人が、そういう経験をしただけで、
ユングとかフロイドのメソッドを使うセラピストとのセッションでは、大して変化がなくて、行動療法のメソッドを使ったものの方が自分にあっていた、という人もいますので、自分にあったセラピストを見つけるのは、とっても大事だとおもいます。

ともあれ、このクライアントの声がきっかけでちょっと調べた結果、この2つは、やはり結構違う 別ものだという結論に至ったのでした。

私の理解は
カウンセリング:クライアントが、困っていること、変えたいと思っていることについて、セラピストは話をきき、問題点を指摘し、変わるための考え方や行動の仕方をアドバイスする。クライアントの無意識の層にある感情をプロセスすることはない。

サイコセラピー: クライアントの無意識の層、あるいは、意識していない自分自身の側面を、セラピストとのやり取りのなかで浮き上がらせ、クライアント自身が、自分の価値観は何なのか、どう変わることを、何故求めているのか、などの自分自身の問いの答えを一緒にさがす。セラピストが、こうしたらいい、ああしたらいい、というサジェスチョンは基本的にない。ゲシュタルト、ユング、フロイドの考え方・アプローチはこちら側。
アナリティカル ミュージックセラピー、GIMも、こちらに分類されると思います。

ファミリーセラピー:ファミリーセラピストはクライアントの問題点を、家族の関係の中から生まれていると仮定する。クライアントによって話された、感情、出来事、自分自身の性格、などが、どの様に家族との関係の中ではぐぐまれてきたか、探る。例えば、親子間や夫婦間の関係がねじれていたり、どんずまり状態なとき、何がそうさせているのか考え、その関係を改善させるための手段をとる。どのメソッド(行動療法的なのか、サイコセラピーなのか)を使うかは、セラピストによって異なる。

このカテゴリー分けは、書いてみると、あまり意味がないように感じてきたのだけど、
これからカウンセリング、あるいはセラピーに行こうと思っている人が、その違いが存在することを知り、より自分にあったセラピストをみつける助けになればいいな、と思っています。
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by totoatsuko | 2006-04-12 05:31 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(2)

コントロール

d0065558_10281112.jpg人は、状況をコントロールするのに色んな対応をする。
もう、自分でも全くコントロールがきかないと感じると、自暴自棄になったりもする。

生きていると、自分の思うようにならないことだらけ。
自分自身のことですら思うようにならない。

なりたい自分になれない。
人に見られたい自分像をつくれない。
色んな瞬間を楽しみたいのに、心から楽しめない。
人といい関係を築きたいのに、何故か、心から通じ合えない。
なにもする気がわかない。

摂食障害、食べる量が以上に少なかったり、多かったり、もどしたするのは、色んなまわりの状況は変えられないけど、食べること、吐くことだけは自分でコントロール出来る、という体と心の主張の現われだったりする。しかし、その行為に心と体は、そうとうなエネルギーを費やし、疲れきってしまう。

家庭内暴力を振るうことで、自暴自棄になっている弱い自分を一時わすれ、強い自分に酔える。その結果、家族との関係は、もっともっと悪くなっていき、より自暴自棄に感じてしまう状況を生み出しているのだけど。

鬱になることによって、やりきれない環境から自分をシャットダウンすることにより、自分の置かれている(感じている)世界感を変えようとすることもある。それにより、鬱から抜け出すために必要なエネルギーを補充する手段や、友達たちからも、遠ざかってしまい、ますます、深い欝への道へ入り込んでしまう。


状況がコントロールできないのは、本当につらい。
自分のできる限りの努力しても、(例えば相手と話し合おうとする)、変わらなかったら、なおさら。だから、上に述べたような色んな自虐行為をとってしまう。

もっとも、多くの場合、自分が 「つらいと思っている」とか、「色んな収拾のつかない感情をコントロールするために、そのような手段を取っている」という事に気付いていない。

現実味をなかなかうまくここで伝えられていない感じがするのだけど、、、
あるクライアントの言葉を借りると、
「自分ができることはやった (相手とケンカしたり、会社を辞めたり)したけど、状況は何もかわらなくて、そして、あまりにも、辛いし、どう扱っていいか分からなくなったので、忘れることにして、そのドロドロしたものに、蓋をしていました。でも、それがきっと、数年来の原因不明の足の痛みに現れているんだと気付きました。この傷ついて困りはてている心をケアしない限り、体が、もう前にすすめない、って言っている。」

GIMセラピーでは、無意識の層から湧き出る イメージが、蓋の下にあるドロドロを少しづつ、今、この自分が受け入れられるだけの量だけ取り出して、自分が、そこに自分の何をほおむっているのか知っていく、それを毎回繰り返す事によって、自分自身の全体をよりよく、知り、必要なケアをしていくことを可能にする。

セラピーにきて、初めて体のサインと心のもつれの関係に気付いた、と言う人がよくいる。
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by totoatsuko | 2006-04-11 10:26 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(0)

チャイルド アビュース

d0065558_9454049.jpgこちらでは、家庭内暴力 (Domestic Violence)も、もう少し細かく分かれていて、その一つがチャイルドアビュース&ネグレクト。

最近、これについて少し勉強したのだけど、
親が言葉の暴力や、子供の体を傷つけるものから、セクシュアルアビュース、兄弟が親に加担するケース、そして薬を不適当に飲ませて体調を悪くさせるもの (munchausen syndrome by proxy) まであるのに、驚いてしまった。暴力を振るう方は、子供の頃振るわれた経験がある人が多い。

チャイルドアビュースを行なう方には、色々な心の問題・欲求があるのだけれど、
薬を飲ませるケースにおいては、子供が調子が悪いと、皆が同情してくれる、注意を払ってくれる、それが、親(大抵の場合、母親だそうだ)の「かまってほしい」 「自分の辛さをケアして欲しい」という、無意識、(あるいは、ある程度意識された)欲求の裏返しなのだそうだ。

こちらでは、チャイルドアビュースが起きているのを知っていて、放置するのは、法律に触れることになる。反面、立証するのはなかなか難しいのだけれど、少なくとも、実際起きているかどうかインタビューしたり、証拠をファイルしなくてはならない。

立証されれば、Child Protective Services (CPS)という所から人が派遣されて、子供を親から引き離すか、そのまま監視下におくか、など対処方法を決めていく。法廷がかかわってくることもある。


セラピストとして、これは、慎重に扱わなくてはならない事柄だ。
「妻に、夫に、子供に、暴力を振るうのを、やめたいけど、やめられないんです。」
そう、誰からも隠れて行なっている家庭内暴力を、なんとかしたい、と思ってセラピーの場で打ち明けているのに、それを外部に報告してしまったら、セラピストへの信頼もなくなってしまうだろうし、その行動の裏にある心のもつれは、永遠に解決されなくなってしまう。

セラピーに来て、「この問題にとりくみたい」という人は、大抵、それがよくないこと、と頭で理解しているし、やめたい、と思っている。でも、やめられないのだ。

頭は心を支配しきれない。


今までの経験では、セッションを始めて3回目以内に、その人の暴力行為が変わっているので、真剣にそのジレンマに悩まされたことはないのだけれど。

日本の法律は、どなっているのだろう。。。
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by totoatsuko | 2006-04-11 09:45 | 日々感じたこと | Comments(0)

感謝されて活動する?

d0065558_1328157.jpgちょっとふるいけど、、、12/10・2005 の記事 Asashi.com から。

「自民党の武部勤幹事長は9日、東京都内での講演で、若者のフリーター増など教育問題に関連して「1度自衛隊にでも入って(イラク南部の)サマワみたいなところに行って、本当に緊張感を持って地元の皆さん方から感謝されて活動してみると、3カ月ぐらいで瞬く間に変わるのではないかと思う」と語った。 フリーターの増加などを理由に教育の立て直しを求める会場からの質問に対して答えた。」

彼の気持ちは私なりに想像できる。一つの仕事を続けられない人は、甘えているとか、人生に真剣でないとか、そんな考えが、このコメントの裏にあるのではないかと思う。感謝されるために活動する? 私にはしっくりこない一言だ。

働く目的が、他人から自分を評価して貰う事 だとしたら、仕事なんてやってられないだろう。他人から常に注意を払ってもらい、評価される、という外的な要因のみで 自己の価値を保っているなら、その人はとても脆い。外的要因、例えば人間関係、社会の価値観、会社の環境は常に変化し、いつもいつも 十分な評価を得るのは難しい。

人は、自分自身を自分自身で評価し、内面から 自分自身の価値を見出すことが出来る。社会からみたら、くだらない仕事、生き方をしているといわれても、それをすること自体に喜びや意味を見出すことが出来る人は、社会に認められなくても、精神的に充実した日々を送れるだろう。そして、多くの場合、彼らのやっていることは結果的に社会から大きな評価を得ることもある。例えば、色んな分野のパイオニア達。エジソンは周りからクレージーと言われていたが、後世に残る発明をしている。宮大工は、時代が移るにつれ、世間から必要とされなくなってきていたが、いざ重要文化財の修復をすることになった時、出来るのは彼らしかいない。彼らには、社会がどういう目で見ていようと、自分のやっていることにプライドがあり、情熱がある。

外の目を過剰に求め、周りの価値観を自分の価値観と勘違いしていきていると、きっとどこかで苦しくなる。どんなに回りに認められても、ちやほやされても、自分の中心が満足していないと、いつか、自分がまわりに振り回されて生きてくることを選んでしまったことに気付くだろう。

感謝されるために活動する?
この政治家の方って、それが政治家やってるインセンティブなの?
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by totoatsuko | 2006-04-02 13:32 | 日々感じたこと | Comments(2)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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