カウンセリング@代々木上原・音楽療法・心理療法 GIM

totoatsuko.exblog.jp ブログトップ

<   2005年 06月 ( 8 )   > この月の画像一覧

セッション例

1.Dream and Music :GIM セッション
2.ピアノを使った子供とのセッション
3.遷延性意識障害の少女とのセッション
4.75歳の女性とその家族とのセッション:出会いから亡くなるまでの1月半

ホームページ


1.Dream and Music:GIM セッション

Guided Imagery and Music の投稿をご覧ください。




2.ピアノを使った子供とのセッション

d0065558_1365592.jpgベビーシッターに預けられないので、お母さんが3歳の男の子と6歳の女の子を一緒に連れてきて、1時間のセッションのうち、40分はお姉さん20分は弟のピアノのレッスンをしていました。

待っているほうは静かにしていなくてはいけません、どんなにピアノに触りたい衝動に駆られても!これは子供にとってとてもつらいことですが、よい学びの機会でもあります。

ある日は、お姉さんが”お祭り”という曲を弾いていたので、お祭りの絵を待っている間に書いてもらうことにしました。そうすると彼は、日本でのお祭りやアメリカであったフェスティバルの絵をわき目もふらずに描き始め、お姉さんのレッスンが終わったときは、みんなで彼の絵について話をし、彼は自分の絵について、自分の感動について人に語る機会がもてました。

一方お姉さんのほうは、私のところに来る前はとてもテクニックに厳しい先生に習っていたらしく、どの曲を弾いても表情のない彼女らしさが出ていない弾き方をしていました。こうしてはいけない、ああするべき、という先生のアドバイスが彼女の可能性を制限しているように思えました。

でも、作曲家はいろんな感情をもって作曲したのですから、それを自分自身で理解して、いろんな音色で奏でるほうが、指が早く動くことよりも、もっと大切だとおもうし、そのほうが弾いていて楽しいでしょう?

少し私のスタイルに慣れてきて、すっかり私のことを信頼してくれるようになったころ、即興演奏(楽譜なしで、いきなりピアノで何でもいいから弾く)をしてみようよ!と持ちかけました。彼女がその提案を受け入れるまで何度かのセッションが必要でした。これはとても理解できることで、今まで楽譜をそのまま弾いていれば間違いはなかったのに、今度は楽譜も何もない自分だけが”音楽”を作らなくてはならない、というのは不安な気持ちになるのも当然です。でも、後日彼女は私や弟との即興演奏をとても楽しむようになり、歌も一緒に作りました。

クリスマスコンサートでは、一緒にプログラムを考え、インビテーションカードを作り、当日はビデオで録画し、演奏者の演奏はCDに焼きました。大人から子供まで集まったこのコンサートは、本人たちにとってとても心に残る瞬間だったでしょう。生徒たちがビデオやCDのコピーを日本の家族に送って感動された、と誇らしげに話してくれているのを聞いて、私もとてもうれしく思いました。



3.遷延性意識障害の少女とのセッション

 生まれてから15年間遷延性意識障害の女の子A.は、妊娠6ヶ月目に未熟児として生まれ、脳髄膜炎と診断されます。気管に問題があり、喉にあけられた穴にチューブを入れ酸素が送り込まれているます。目は閉じることが出来ず、血管から血がにじみ出ているので、ガーゼで覆われています。身長は約1メートルあるが、手足の筋肉は使用していないためほとんど発達していません。大きい音に条件反射することも無ありません。栄養は点滴からのみです。

 セッションは週2回、一回約20分。私は ベッドサイドに立ち、Aがその日、その瞬間発しているエネルギーや呼吸の仕方を、注意深く観察しながら、話しかけました。そして、彼女の体が発するエネルギーや呼吸に合わせて、ギターを弾きながら、Aの名前を取り入れたセッションの始まりの歌を歌います。セッションの中間部分は、彼女の呼吸の変化、微妙な体の動きを音楽や歌詞に取り入れながら、即興で歌を作っていきます。セッションの終わりは、次のセッションがあることを知らせる、いつもの終わりの歌を歌います。


 初めてのセッションでは、私が終わりの歌を歌い終わった瞬間、ため息をしました。次回から私が歌の途中で息継ぎをするタイミングで、深いて通常より長い息をするのが観察されました。この時点で、彼女のため息は偶然起こっているのではなく、私と音楽との関係の中で生じている事だと感じました。
 セッションを始めて約1ヵ月後のある日、歌の途中で、顔を真っ赤にしながらゆっくりと90度くらいまで起き上がり、また、ゆっくりと元の仰向けの状態に戻りました。その次のセッションでは2回、20分のセッションの間に起き上がりました。残念ながら、私 の都合で、それが最後のセッションでした。

Aにとって私の創る音楽は、生まれて初めて自分自身と呼応する対象だったと考えられます。音楽は、多くの医療関係者や家族と異なり、Aに反応する事を要求せず、彼女のありのままの状態を受け入れ、それを「音」「歌」という形に反映しました。彼女の発するエネルギーが変われば、音楽のテンポや音量も敏感に変わります。これほどまでに彼女の微妙な変化に逐一気付き、それを意味ある形に転換する音楽と私 は、彼女をそれに積極的に関わりたいと思わせたのではないでしょうか。理論的には、彼女の病状から自力で起き上がったり、感情を持つことは、全くありえないことです。しかし、私と音楽を通じたユニークな関係は、15年間誰も踏み入れることがなかった何かに触れ、彼女を突き動かしたのだと信じています。

このような奇跡的なことが起きたからといって、遷延性意識障害から回復するわけではありません。しかし、一見無反応でも、よく注意して関われば、そこには人間の証が確かにあり、人間としての関係を築く事が可能であることが、このケースでは証明されました。遷延性意識障害や、昏睡状態の人と関わる時、多くの場合、話しかけたり体に触れたりして、その人が体を動かしたり、発声するのを期待します。しかし、それはあくまで私たちのやり方でコミュニケーションをとろうとしているに過ぎません。彼女の反応を期待せず、ただ彼女に寄り添い、受け入れ、その空間と時間を共有する事により、「彼女の」意思表示の仕方、生き方、が理解出来、「私達の」ではなく、「彼女の」やり方でコミュニケーションを図る事が可能になります。この時、音楽は、言葉を必要としない、患者のありのままを受け入れ、また呼応することの出来る方法として、とても有効であることが、このケースから言えるでしょう。



4.75歳の女性とその家族とのセッション~出会いから亡くなるまでの1月半

クライアントは75歳 の女性. 週2-3回 約30分のギター、歌、ベルを使ったセッション。私が行く時は、いつも、孫が付き添いでいて、最初2回のセッションは、孫N(彼女)も参加しました。クライアントは ゆっくり進行していく病気で、今はいつも椅子に座っています。自分で体は動かせんし喋れませんが、ベルを音楽に合わせてささやかながら演奏し、とても積極的に音楽に関わっていました。彼女の名前を歌に入れ込んで歌う時は、歌おうと口と舌を必死に動かしていました。

セッションの目標は、クライアントが表現の自由を音楽を通して経験する事 (Give her a voice through music)、 Grief Process (病気のせいで失った自分の能力、生活、人間関係や、旦那を失った悲しみを慰める )でした。

最初の2回のセッションで、Nはいつもクライアントの代弁をします。”おうちに帰りたいんだよねー” ”音楽ってすごくいい,って言ってる”。 Nの歌の選択から、Nは意識していないけれど、この状況を相当ストレスフルだと感じていて、少し休む事が必要だと思いました。とても献身的で、それを進んでやっているけれど、自分が意識している以上に疲れてる。おばの娘 (Nの従姉)が脳の癌で入院しているので、おばの話し相手役にもなっている。

お互いのニーズに違いがあることが明らかになってきたので、3回目のセッションからは、クライアントと二人にしてもらう事にしました。Nはセッション中、一人の時間を持ってもらうことに。これによって、私はクライアントのニーズにフォーカスしてセッションを進めていく事が可能になりました。


クライアントは少しパーキンソン病の症状もある、神経系の病気のせいで、喋れないけれど、Nという代弁者がいなくなった事で、この後のセッションでは一生懸命口、下、頬を動かして話そうとする行為が増えました。音にはなかなかならなくて、私が唯一聞いた音は”あー” という短い音。 ただ、口の動きを見ていると、明らかに”ありがとう" と言おうとしているのが分かったりしました。

ある日いつもの様にクライアントの部屋を覗くと、何故か沢山(10人以上)人が部屋にいる。Nが私を見つけて部屋の奥から出てきて涙ぐんで言う。「おばあちゃんが危篤なの。だから、家族が集まっているの。」

私は、”じゃぁ、今日はみんなで歌を選びあって、それぞれが大事だと思っている事を、おばあちゃんと共有しませんか?”と提案する。皆に自己紹介をして、セッションの趣旨を説明する。歌う人もいれば、体をゆすっているだけの人も、クライアントの手を握っている人も、ビデオを撮り始めたり、涙している人も。クライアントも無反応だったのが、指が動いたり、表情が動いたり。クライアントのエネルギーにあわせた音楽のテンポやボリュームの選択は、クライアントの存在を中心とした空間のエネルギーを作り出し、家族はそれを生々しく肌で感じた事でしょう。久々に何か心の深い所に響いた、セッションでした。

翌日、もう彼女は亡くなっているのか、と思うと残念な気持ちでもありましたが、ある意味スピリチュアルな繋がりも感じてました。週2,3回しか行かないのに、その日が長い人生が終わる瞬間だった彼女と、彼女の大事な人たちと共に作ることが出来た事に対して、何か感慨深い気持ちがしました。
[PR]
by totoatsuko | 2005-06-11 09:18 | 音楽療法セッション例 | Comments(0)

死と向かい合う


d0065558_1682075.jpg
I admit that my internship setting, Memorial Sloan-Kettering Cancer Center in NY, is not an easy place for everybody to be. This place is where I feel like I am a witness to the blooming and the fading of the world. It is a sad place, and yet a place that is scented with a kind of peace and joy. In my life now I insist on the right to melancholy. It is the small treasure that lies buried under the frozen fields of morning. Anyone who has endured this winter landscape, anyone who by some miracle has survived the bone breaking blasts of the winter winds of the soul, deserves to celebrate the thaw which uncovers this treasure.

Research conducted by Russell E Hilliard (2003) shows that music therapy with cancer patients in hospice and palliative care improves patients’ quality of life significantly but does not extend the length of life. These results support the sense that I had when working with cancer patients. My work is neither to strengthen their immune systems nor to prolong their life. I care more about their relationship to their life, illness and death.


I believe that music therapy can facilitate the change of the color of the dying period so that it is not just dreary, depressing, or the dragging of time, but wherever possible, it becomes a time for growth. I hope the person warmly accepts or at least comes to know whom he is before death. Music can lead to profound expression – a summarizing of one’s life. Music fulfills the patients’ desire to collect their experiences and their wisdom in concrete form, which could make a highly individual dying process happen.


I also work toward a death that will leave the family with as little scarring as possible. The music offers families a way to create special memories and conversations during the dying process and a way to remember and grieve during bereavement. Families in the midst of suffering find music therapy as a relief, an activity to do together. It creates an emotionally natural situation, and family members are gratified. Music can initiate new conversations, and allows participants to assist one another in loving ways.
[PR]
by totoatsuko | 2005-06-11 08:56 | 日々感じたこと

楽しいピアノレッスンだってあるよ!

d0065558_1314755.jpgピアノの先生が厳しかったり、練習が嫌だったりして、ピアノを弾くことをあきらめてしまった, という人に出会うたびに残念なきもちになります。私も練習が大嫌いな子供の一人でしたが。。。音楽療法を勉強するまで、音楽と自分の関係がとても狭かったように思います。ピアノを弾く、音楽をする、というのはもっともっと楽しいものでもあり得るんですよ!
私のところにピアノを習いに来る人の目的はさまざまです。ピアニストになりたい!という人から両手で一曲好きな曲が弾けるようになりたいという人もいますし、ただ音楽に親しみを持たせたい、と乳児を連れたご両親がいらっしゃることもあります。
とても限定された空間と時間の中でいらっしゃる方と心の繋がりと会話をとても大事にしながら、ピアノのレッスンをやっています。
ボストン・ニューヨークにいる頃は、季節の折に企画するサロンコンサートを企画し、ちょっとお洒落をして、ご家族、ご友人を招きました。これは、日ごろの練習の励みにもなるし、その成果をみんなに知ってもらうとってもよい機会と思い出になりました。

興味のある方、こんなレッスンが希望なんだけど、という方はお気軽にご相談ください。
現在、東京都 代々木上原で行なっています。


ホームページ
[PR]
by totoatsuko | 2005-06-04 09:31 | ピアノレッスン | Comments(1)

聴覚障害のある子供と音楽療法 - 日本の聴覚障害を持つ子供のために何が出来るか

全国の聾学校の在学者は2001年現在、ピーク時の半数以下の約一万千人になりました。少子化の影響に加えて補聴器の発達により、全聾、難聴の子供でも普通小、中学校に進学できるようになったためです。 厚生省の掲げる、障害者が社会にとけこんで暮らす“ノーマライゼーション”の実現が進んでいる現われといえるでしょう。

1994年に、新しいタイプの補聴器「人工内耳」(じんこうないじ)が健康保険に組み込まれました。内耳に微小の電極を挿入し音を電気信号に変換、聴神経に直接電気刺激を伝える不可逆的な手術を乳児期に行い、特別な訓練をする事により、従来の補聴器では聴力を取り戻しえない先天性聾の子供が、音を聞きとり、会話ができるようになります。

もっとも、2001年12月現在、全国にいる約二千人の人工内耳装用者のうち、乳幼児期からの装用者は数えるほどです。また、全聾で生まれた子供が聴覚を取り戻し言葉を話せるようになるためには、専門家による特別な訓練、および子供と家族の心理的サポート体制が不可欠であり、残念ながらそれが整備されている保育園は現在ほとんどないのが現状なのです。

これに対し、私が音楽療法のインターン生として働いたニューヨーク州ブルックリンの先天性聾専門の幼稚園では、95%の児童が人工内耳を装用しており、一クラス約10名の子供に対して2人の学級担当の他、作業療法士、臨床心理士、スピーチセラピストそして音楽療法士などの専門家が協力して、多方面から子供達とその家族をサポートする体制が敷かれていました。

全聾の子供は、親と言葉でコミュニケーションがとれないがために、子供の健全な成長に不可欠な親子の相互理解に欠きます。また、音が聞こえないがゆえに、周りで起こっている状況を十分把握できず、常に精神的に不安な状態にあります。その親は、子供に十分愛情を伝えられない事へのフラストレーションと、普通聴覚を持つ他の兄弟との関係に悩みを抱えている。この様な家族環境は、子供の言葉の発達の速さにも影響します。この点において、様々な専門家たちによる家族のサポート体制は非常に重要な意味合いを持つのです。

そのなかで、私が専門とする音楽療法のユニークなのは、全聾の子供達が劣等感を感じる事のなく音の存在に気づき、言葉を学び、他者と意思疎通できるようになる環境を提供できることです。音のない世界に生まれてきた子供達が、音のある世界との関係に自信を持ち、言葉や音を使って自己表現する事を確実に手助けしていくことができます。

2002年の新学習指導要項では、障害児学校は父母への教育相談を行うなど、地域障害児センター的なものと位置付けられているが、障害児と家族の様々なニーズに専門家を使って応える体制はまだ十分に整っていない。しかし、現在約17000名の作業療法士、8338名の臨床心理士、5587名言語聴覚士、338名の音楽療法士を抱える我が国においては、アメリカのような層の厚いホリスティックな教育カリキュラムを組む下地はあると私は考えています。

障害児の社会参加と自立への道を開いていくために、専門家の一人として、他の分野の専門家と手を組み、子供達のより健やかな成長に必要な環境を作り出していきたい、と考えています。


幼児のための音楽クラス Music Together @ 代々木上原 無料体験 受付中。詳細はコチラ  
マクロビおやつ付き。お問合せは letsmusicingATgmail.com (ATを@に置き換えてください)迄。


音楽とアートを使う 心理療法・カウンセリング Guided Imagery and Music (GIM) session
についてはコチラ   
.
.
    

[PR]
by totoatsuko | 2005-06-04 09:29 | 日々感じたこと | Comments(0)

Guided Imagery and Music

Guided Imagery and Music とは?
(以下 GIM: ガイデッド イメジェリー アンド ミュージック)


フロイト、カール・ユングなどの心理学者が提唱している、無意識の層の存在についてきいた事があるでしょうか?自分の一部であるにもかかわらず、心の複雑な構造ゆえに、また日々の煩雑に追われ、なかなか深層心理と深い対話をする機会がないかもしれません。

しかし目覚める前にみた夢が、一体何を伝えているのだろう? と思ったことがある人もいるでしょう。ユングは、夢は深層心理からのイメージ化されたメッセージだと言っています。

2時間のGIMセッションでは、音楽を聴きながら心にうかんだイメージや、色と形を画用紙に描くことを通じて、心の中に存在している無意識の層と、深い会話を体験することを目的とします。何か自分よりもおおきなもの、とてもスピリチュアルな体験も起こることがあります。

セラピーは、自分と 自分なりの方法で 真摯に向き合っていくプロセスです。

1つの典型的なセッションの流れとしては、クライアントとセラピストの対話でセッションが始まります。
その日の気分や、印象的だった夢や出来事についてなど、セッションの時と空間の中で自分の中に現れた事を話します。

その後、セラピストはその会話に基づいて音楽を選び、クライアントを瞑想状態に導いていきます。クライアントはイメージの中に入ってゆき、自分の中で音楽とそのイメージがどう変化していくか、どのようは感情が出てくるか探ります。いうなれば、夢を見ている状態に似ているといえます。音楽とセラピストはあなたの心の深い旅の同伴者です。

音楽が終わると、クライアントは、音楽の中での体験を、対話や色と形に描くことによって、セラピストと共にプロセスします。そうすることにより、自分の中から湧き出てきた、イメージ、色、形が自分にとってどういう意味があるのか探っていきます。



ある クライアントは
“私の issueはとても深い所に埋められていて、硬く蓋をされていました。私はその蓋をこじ開けることができず、中にあるものとの対話をする事も出来ませんでした。しかし、音楽は私をリラックスさせ、夢想状態に導き、私の心の深い部分が自ら表層に浮かび上がってきました。言葉のみのセラピーでは、外からの解釈をきいているようであったのに対して、GIMは私の内側から意味や答えが生まれてくるようでした。”


“I really enjoyed the music therapy session. It was such a unique and relaxing experience, unlike anything I have experienced before. The whole process stirred my creativity and imagination in a way I haven't experienced in a long time.”

"It's great way to explore inside you. I discovered more my hope, direction as well as my hidden fear. Thank you"



GIMにおけるイメージと音楽体験に関する考察
音楽プログラム:ベートーベン ピアノコンチェルト5番2楽章、バッハ ブランデンブルグ協奏曲 6番 アダ-ジオ、フォーレ レクイエム In Paradisum、で の異なる二人のクライアント のイメージの要約。


音楽中に見たイメージ
クライアント. A: 色が移り変わる空を飛んでいると少し不安な気持ちになる。海に浮かぶ大きな安定感のある船に降りると、多くの船室: 薄気味悪い部屋、居心地のよさそうな部屋などを見つける。船上パーティーの人ごみで感じる 頭痛の色は黄緑。毎セッション出てくる熊の登場は、Cl. の心を落ち着かせる。

クライアント. B: 幼少の頃死に別れた 父親と祖母と暖かい光の中で再会, 抱擁、対話。彼らを失った悲しみと、出会えた喜びで止まらない涙。崇高でスピリチュアルな気持ち。


AとBのイメージ解釈
Aは、30代後半の人生の岐路に立つ女性。音楽の後、その体験を振り返って、A. は空の色が、自身の揺れ動く気持ち、其々の船室は、異なる自分の側面を表していることに気付き、新しい自分の存在を発見・受容する。又、熊に対する感情体験を通して、それは内在する自身の男性性や包容力であると解釈し、自分自身に対する“常に不安で自立できない”というイメージが変わるきっかけをつくる。

Bは、20代半ばの男性で、自分のルーツを探りたいとGIMセッションを受けていた。音楽体験の後、当時の自分は、残された母親を心理的に支える使命を果たす事に精一杯だった事に気付いた、と述べる。音楽とイメージの中で、今まで十分に受け止める機会がなかった悲しみ、父親と祖母に伝え切れなかった気持ちを表現する、神秘的な体験を通して、この死別体験が現在の自分の大きな部分をかたどっている事に気付く。この体験により彼は"二つの死“にまつわる認識されていなかった感情の呪縛から開放されると同時に、新たに認識された自分の一部が他の部分に統合されていく動きを生む。また、彼にとって初めてのスピリチュアルな体験は、その後自分自身のスピリチュアリティーについて目を向けるきっかけをつくった。


考察
クライアント のイメージを生み出す原動力は、意識化されていない感情や、意識されてはいたが、選ばれた楽曲の要素(リズム、楽器編成、様式等)に刺激されて、より鮮明になった感情だ。音楽の中で、クライアント. は意識・無意識の領域を縦横にまたがって触れ、 心の内面で混沌としているお互いにもつれ合った感情、記憶、価値観等を、イメージに転換する。さらに、セラピスト. はイメージ体験を「言葉」を使って説明することを促す事により、クライアント. がより音楽体験を包括的に理解することを可能にする。
Aは船室というイメージというクッションを通して自身の様々な側面を見て感じる事により、新たな自己の出現に圧倒されることなく、自分に対する理解を深めた。

また、Bは、「自分」という「個」を超えた現象を通して、世界感が変わり、「自分」という存在を考える直すきっかけにもなった。


ユングのいうアーキタイプ、文化、宗教、民族の間で普遍的なイメージ (シンボル)の持つ意味についての知識は、Th. がCl. の心理状態の仮説を立てるための参考になる。しかし、BMGIMセラピーでの最も重要なプロセスは、音楽を聴きながらCl. 自身が創り出したイメージ体験であり、その体験を通じて、自分自身の奥深さに気付いたり、心のどこかで知っている自分なりの答えを、自ら導き出すことにある。音楽とセラピスト の役割は、そのプロセスをサポートし促進させる所にある。
[PR]
by totoatsuko | 2005-06-04 09:23 | GIM:音楽と深層心理イメージ | Comments(0)

活動に関する記事

久保 麻子 著(ジャーナリスト)


d0065558_136344.jpg音楽の効用を利用し心のケアにあたる音楽療法。「ヒーリング」という言葉が一般化して久しい日本でも、その認知度は浅い。灘田篤子さんは、NYを拠点としミュージックセラピストとして活躍する傍ら、日本での理解を広めようとする一人だ。音楽の可能性を信じながら、クライアントと共に歩く姿は、穏やかでありながら逞しい。

NYのある病院。植物状態の15歳の少女の傍らで、ギターを片手に歌いかける。次第に少女の心拍数は上がり、曲のフレーズごとに大きくため息をするように。息に合わせて即興演奏で応える。少女は息のリズムで音楽を導く。二人のコミュニケーションを可能にしているもの。それは音楽。「これは、患者の生活の質を上げることになります。植物人間で、私の存在意味は何なんだろうと思う彼女にとって、自己表現の場になるわけですから」

音楽の技術と医学の知識。両者が求められる音楽療法士という職業に出会ったのは、大学3年の頃、ニューヨーク大学主催のセミナーに参加した時だった。10歳の時に、ひとつ違いの弟を小児癌で亡くして以来、医者を志す。しかし、母親が自分にピアノを続けて欲しい気持ちも分かっていた彼女は、「どうせ行くなら一番良いところへ」と桐朋音大へ進学。医大を受け直そうかと思っていた頃、上記のミュージックセラピーのセミナーに偶然参加した。「あ、こういうものがあるのか。これなら私が今までやってきたものと、医学への思いも同時に生かせると思いましたね。でも日本ではまだ勉強できるところがない、そして留学を決めました」

大学院在学中、癌センターで研修生として、患者の心のケアにあたる。クライアントの一人に、35歳の乳がんの女性がいた。彼女は余命わずかで、夫も6人の子供も途方に暮れている。そんな時、例えば一緒に歌を歌ってみる。家族へのメッセージをテープに残してもいいのよ、と問い掛けてみる。その中で、歌を選ぶプロセスも重要だという。「全体の雰囲気や感情を共有し、私はコンテナー(器)として存在するわけです。泣き出したら、泣いてもいいのよ、と受け止めてあげる。音楽を通じ、行き場のない感情を共有することで生まれた一体感は、死に行く彼女だけでなく、残される家族の人生にも影響を与えるかもしれない」

死期の近い患者と接していても、そこに悲壮感がないのは、死を「終わり」ではなく、誕生と同じように「プロセス」と捉えているから。死があるから私たちは意味ある人生を歩むことができる。彼女は言う、死と向き合うためには、自分にとって恐怖とは何か、自分自身を知ることが必要だと。「死を目前に控えた時に、残りの人生をいかに過ごすかで、自分らしい死、自分らしい人生を歩むことができる。そのお手伝いができることは貴重なことだと思っています。光栄といっては言い過ぎですが…」

障害者やお年寄りを対象にするイメージが強い音楽療法だが、いわゆる健常者の心の健康にも有効活用されている。彼女の自宅に親子で訪れるクライアントも多いという。「カウンセリングや楽器で遊ぶ中で、親子関係が現れてくるんです。親が子供をコントロールしているとか。それを音楽で、子供が親をコントロールするようにしてみる。すると、親のほうが自分のしていることに気付いたり」

そんな彼女のクライアントに対する姿勢は柔軟性を持ちながらも一貫している。それは、クライアントの感覚を尊重しているから。「私は、『こうすべきよ』と判断を与える人ではないんです。彼らに対して、答えは見つけられなくても、一緒に迷ったり、絡んだ糸を解いたり、時には抱きしめたり、ただ隣にいるだけだったり、背中をさすってあげたり…言うなれば、私はコートラベラー(共に旅をする人)、カンパニー(仲間)かな?」一番やりがいを感じるのは、相手が心を開いてくれた瞬間。「それは、涙かもしれない、笑顔かもしれない。でも最初は抵抗やためらいがあった相手が、私を心から信頼してくれた時が一番嬉しいです」

小柄ながら、時折力強い目をする。それは、周りに流されることなく、自分の人生を選んできた自信。進学高から名門音楽大学へ進むも、周囲の風潮「なんとしても有名大学へ」「どうしても音楽家に」どちらの人生にも興味はなかった。それゆえ、風当たりも強く、話の合う友人もわずか。音大志望の彼女に対し高校時代の教諭が言い放った言葉は「お前は人間のクズだ」しかし、彼女が全国読書感想文コンクールで入賞するやいなや、教師陣は態度を豹変させる。人間とはこんなにも変われるものなのか…。
「『人間のクズ』がNYまで来ちゃって」と微笑む。「今、先生に会ったら?特に言いたいこともないです。先生も良かれと思ってしていたことですから。彼らの考え方を変えようとは思いません。セラピーも一緒です。人を変えることなんてできないし、何が正しいかなんて決めることはできない。いくら心理学を学んでも、その人のことは本人にしか分からないし、ましてやセラピーでお会いする以外の膨大な時間を私は知らないわけです。それでも一緒に迷ったり歩いたりすることはできるでしょう?」

現在は、アメリカで活躍する彼女だが、日本での音楽療法の理解の普及も使命と感じている。帰国する度に感じることは、「日本では、まだまだ音楽療法が『歌のお姉さん』の域を越えていない(笑)」実力ある音楽療法士がいないことと、雇用者側も理解不足から価値を見出すことが出来ず、職業として成り立たないのが現状だ。しかし、現在欧米で音楽療法を学ぶ日本人学生は多い。まずは日本での土壌作りを目指し、帰国時には病院で講演をすることもある。「先は長いですが、少しずつ理解を広められたらと思います。日本の役には立ちたいです」論文翻訳も計画中。音楽療法の先駆者として、彼女の意欲は止まらない。

趣味は陶芸や油絵。「カウンセリングに色を使うこともあります。色、音、テンポ、全てに気持ちは現れる。全部繋がっているんですよ」
決して押しつけることなく、奢ることなく、時に見守り、時に背中を押しながら。彼女はこれからもクライアントと共に「歩いて」いく。 
[PR]
by totoatsuko | 2005-06-04 09:13 | プロフィールとコンタクトinfo | Comments(4)

地図無き旅 - 私の人生における3つの大きな別れ

Where I came from - Three significant death in my childhood -
これまでの私の人生に大きなインパクトを与えた3つの死と、その後私が歩んだ道について。

(邦訳)
地図無き旅 - 私の人生における3つの大きな別れ

幼少時代に経験した3つの別れが、私を遠く日本からここニューヨークへ、音楽療法を学びに導いてきた。今、私は最も病状が重い人々とその家族を相手に仕事をしている。私の行路(journey)は事前に計画されたものではなく、地図が無いまま進められたものである。それは魂の冬の景色、私が突然予想だにせずに直面した、心を打ち砕かれるようなあの別れの後に、気がついたら自分がいた、あの遠い国の景色をかたどったものである。この風景には本当に地図の類のものはなく、私の悲哀が辿ってきた順路を記録した導(しるべ)も存在しない。ここでは、私は否がおうにも自分自身で行路を探し出さなければ行けなかったのである。

1986年8月、私が最も敬愛していた祖母が数週間の入院生活を経て、62年の生涯を閉じた。これは私にとって、病気と死に接した初めての経験だった。彼女は翌週には退院できることになっており、病院スタッフは彼女の腹部の痛みを抑えるために何ら処置を施していなかった。家族全員が絶望に打ちひしがれ、正気さを失っていた。何故、私達の祖母が死ななければならないのか?

その3ヵ月後、私の最愛の弟が、大病との5年間の闘病生活を経て、私を独り残して亡くなった。彼はたったの9歳だった。
私はあの日、家族でテレビを見ていた際に、彼が突然黄色い木目の床に黒い血を吐いたあの日を決して忘れることはできない。彼は当時5歳だった。それ以来、彼は入院と退院を繰り返し、家族、親戚、そして病院スタッフに囲まれて病院で最期を迎えた。その朝、私は学校に出かけようとしていると、祖母に病院に向かわなければならない旨伝えられた。母と病院スタッフに囲まれている弟の姿を見た瞬間、私はすぐに、彼がまもなく死ぬということに気がついた。彼は危篤状態にあり、苦しそうに肩を上下しながら息をしていた。私はもう彼と一緒に遊ぶことができないことに気がつき、思わず泣き出じゃくった。しかし、私は泣きながら彼に話しかけていた、「すぐに元気になるよ。そしたら、また一緒に学校に行こう」と。彼が死ぬという事実を到底受け止めることはできず、どこかで彼が回復すると信じなければ、とても正気ではいられなかった。その時驚くことに、そして思いがけず、彼はその私の言葉に応えるよう目を開き、私を数秒間じっと見つめ、そして永遠に目を閉じた。彼は私に別れを告げるために戻ってきて、そして旅立っていったのだ。私は彼が徐々に衰えていき、形がはっきりとせず、後ろへたずさり、私から遠く、どこか暗い処へ向かってしまって行くように感じた。彼を止めることはできなかった。医学的には彼はその直後に亡くなったのだが、私は彼が死んだ後、ベールを潜ってまた別の場所に行ったということを知っていた。今でも、彼との最期のアイコンタクトの瞬間を忘れることができない。

1995年1月、私の叔父が彼の家から数ブロック離れた病院で、家族に看取られることなく、独りで死んでいった。彼は癌摘出の手術後、声を失っていた。手術の後、彼はひどく落ち込んでいたが、誰も、彼の家族さえ、彼の言うことに耳を傾け、支えてあげることはなかった。彼が紙に「もう死にたい」と書いたとき、彼の家族は怒り「そんなことは二度と言うな」と言い放った。彼の家族は、彼と同じ様に、死に直面することを恐れていたのだ。私は当時遠くに離れて住んでいたが、死ぬ間際の彼の言葉に耳を傾けることができなかったことを悔やんでならない。

最初の二つの重大な死の後、私は毎晩ベッドの中で祖母と弟と話をするようになっていた。私は毎日したことや考えたことを彼らに話しかけ、彼らは私の言葉を注意深く聞いてくれた。彼ら自身は余り話をしなかったが、彼らの声は私を包み込んでいるように感じた。私がもっとも気がついたのは、彼らが私に呼びかける音程(tone)であった。彼らの声には愛情、優しさ、思いやり、そして柔らかい抱擁と同じ質があり、それはまるでその音自体に十分な質感があるかのようであった。彼らは私が生を受けて以来、私を暖め、愛してくれたが、今また彼らは自身の死を通じて、私を暖め、愛し、私に目覚めるように呼びかけてくれているのであった。

そして、私の修士論文の執筆の過程は、私を新たな悲哀(grief)の時期に導いた。私の狭い部屋は、壁に掛かる時計の律動的な秒音以外は静寂に包まれていた。建物の冷気は未だ早朝の弱々しい光に暖められることなく、部屋は冷え切っていた。しかし私は一日が始まる前のこれらの時間に慣れていた。自身をバスローブとブランケットに包み、じっとして座っていることに素朴な喜びを感じていたその時間に。早朝目を覚ますと、私はいつもこの静かな孤独のオアシスへ逃げ込むのであった。

私はこの時間と場所を、特にその時間を特徴付けたメランコリックなムードを、愛してやまなかった。このメランコリーに、私は一種の悲しい平和さを感じた。この感覚は、二つによってなっていた。一方では、私は物事の最期の瞬間を看取っているような気がした。まるで物事の確かな存在の中に、それらが消えかかっていくのを感じることができたかのように。他方で、早朝の光の中において、私は物事を初めて見ているような気がした。まるで私が目撃していたのが一日の始まりだけでなく、この世界の真の起源(origin)であったかのように。

このような感覚は私がまだ子供だった頃を思い出させた。私はまだ小さな女の子だった頃、しばしば、一日が始まろうとするその瞬間に立ち会うため、朝早く家から思い切って出かけたものだった。これらは学校が休みに入り、私が自分の両親の子供としてではなく、この美しい世界を初めて訪れた異邦者のような、全く別個の存在へと解き放たれたと感じていた夏である。私はしばしベンチに座り込み、蟻が歩く姿や蝶が舞って描く弧を見つめながら、白日夢にふけるのであった。私は知っていた、自分がどこか別の場所から来たのであり、これらの時間が、私たちが知るこの時間や空間とはまた別の世界があることを思い出させるためにあったということを。ようやく一日が始まろうとし、仕事に向かう大人達がその一日に入ってくる瞬間、私はこの世界が持ち合わせていたある新鮮さ、それは私に静かな喜びを与えてくれるものであったが、それが失われることを残念に思うものだった。また、私は物事の起源(origin)に関する私だけの秘密を奪われること、その起源との繋がりが奪われてしまうのを悲しむものだった。

今となっては、私は信じるようになった、家族との別れが、私自身の起源(origin)に関するある悲しみ、及びもはや将来がない彼らと過ごした過去の思い出についてだけではなく、私という一個人の歴史を超えた遠い昔のこの世界の起源(origin)の瞬間について、目を開かせてくれた、と。そして、メランコリーは、喪失と起源が交じり合い、悲哀とその曇りがかった透明な悲しみがぱっと晴れ、私たちが本当の故郷を、そして私たちがこの世に生を受ける前に有していた顔を一目見ることができる、ある種の試練であると、考えるようになった。ここで歌われる、世界の誕生を称える詩的なインプロビゼーションにおいては、我々が生へ立ち帰る手段としてのこの起源(origin)への帰還が、低音で鳴り響いているのである。

今振り返ると、私は知っている、あの時、静寂の中でじっと座り、どこかに置き忘れてしまった何かが自分の元に戻ってくるのを待ち続けていたのは、私ではなかったということを。あの早朝の時間、まだ光が壊れやすい柔らかさを持ち、その優しさが私の心の堅さを砕いていたその時間に、一歩も動かずに座って待っていたのは、悲哀の中の魂にメランコリックに付き添うあの孤児(Orphan)だったのである。

大抵の朝、私はその待ち時間を、読書をしながら過ごした。正確に言うと、私は本を読んでいた訳ではない。私にとって読書はある種の夢想状態に入り込むための手段であり、そこでは私の意識的な精神は、魂の夢想状態に入り込んでいたのである。ガストン・バシュラールは夢想について、「私たちは読んでいたのであり、そして今私たちは夢を見ている」(1969. p.65) と述べているが、私自身、我々と世界との間の境界を取り壊すこの夢想の力について、証言することができる。この境目において、私はその瞬間に体験しているものと一体となり、自分の自我(ego mind)の小さな房に安置されていると感じることができた。この幸せな空間の中では、私は当然ものとされている「時間」と「空間」の要素が、一瞬にして消え去った世界に居住していた。それ故私は、この夢想に入り込むための手段としての読書を行なっていると、朝などはあっという間に過ぎ去ってしまうということに、一度たりとも驚いたことはなかった。夢想という孤独のなかで朝が過ぎ去り、薄暗い夜明けが黄色い太陽に包まれた午後に変わっていることに気が付くのは、何とも爽快なことだったことか!

メランコリーもまた、魂を精神の足枷から解き放ち、この世界、特に傷つき易いものが花開く瞬間に持ち合わせる魅力に私たちが惹かれるあの場所へと、突き落とす力を持っている。メランコリーに掴まれると、我たちは悟らされる、「この日を生き抜ける保証が無いこと、そのことに気が付いたときから、私たちにとって生はとてつもなく大きなものになる」(Levine, S. 1982. p.74) ということを。私たちが最も愛する者たちが、その一日の終わりにドアをくぐって帰ってくるという保証が全くないことを。ある瞬間、私の弟、祖母と叔父は私と一緒にその部屋にいたのであり、次の瞬間、彼らはいなくなっていた。私の今の生き方は、私たちが愛する者の存在は非常に脆く、一時的なものに過ぎないということの認識、他の何よりもこの認識によって、形作られている。

私が実習(internship)を行なった病院は、多くの人がつらい場所である、という。しかし、ここでは私は、この世が花づく瞬間と衰退していく瞬間、その両方の証人となっているように感じさせられた。ここは深い悲しみに包まれた場所であるが、同時にある種の平和(peace)と喜びが薫っている。ここで私は、自身のメランコリーを求める権利を主張できる。それは早朝の凍った野原の下に埋められた、小さな宝物である。あの冬の景色を耐え抜いた者、何らかの奇跡によって、あの骨をも打ち砕く、凍てつく魂の冬風の突風を生き抜いた者こそが、この宝を露にする雪解けを祝うにふさわしい。

したがって、私はメランコリーが神経症(neurotic)の状態であるという考えを受け入れることはできない。しかしこれはまさにシグモンド(Sigmund)・フロイト(Freud)が、彼の大きな影響力を持った著作である「喪(Mourning)と( and)メランコリア( Melancholia)」(1957)で示した見解である。フロイトにとって、メランコリーは失敗した喪(mourning)であり、特に死んでしまった者を解き放つことに失敗してしまった自我(ego )精神( mind)にとって、一種の拒絶であった。喪の状態を特徴付ける、死者とから少しずつ離れて行く過程において、メランコリックな状態にある個人は失った者と自身を同一視する。彼はまるでその者が死んでいないように振る舞い続け、そうすることによって過去を繰り返し続けようとする、失ったものの写しを誰かの中に見つけようとして。ある意味では、メランコリックな状態にあるものは死んだ過去の中に葬られてしまっているのである。

しかし、私は自身のメランコリーの体験から、それがフロイトが言うところと全く別のものであると確信している。メランコリーは私を過去に鎖で繋ぎとめるようなことはしなかった。むしろ逆に、私をこの現在に解き放ってくれた。時々の儚い美しさを意識し、それを大切に思うようになったこの今に。私はメランコリーの状態に入り、他の者にほんの少しだけ長くしがみつく、ひょっとしたらその相手をよりよく見つめるため、あるいは手をほんの少しだけ長く握るために。なぜなら私は、この時間が再び訪れることはないと知っているから。

私はフロイトが、メランコリーが持つこの感動的な特徴を、見逃していたと考えている。それは彼が悲哀(grief)と喪(mourning)を自我(ego)精神( mind)の立場から見ていたからであり、不思議にも、見晴らしの良い、魂(soul)の立場から見つめていなかったからである。私も自身の経験から、メランコリーから忙しさに任され、現実に急ぎ戻されたと感じた瞬間、私のメランコリーを他人に非難されたことも多くあった。友人からは、私が絶望の泥濘の中で溺れかけているように見えていたかも知れない。しかし、私は決してそうはしていなかった。むしろ逆に、私は魂に導かれ、喪を抜ける冬の行路を歩み、自身のコントロールを超えたそのリズムに逆らわずに生きていた。その喪の過程で私の魂は私を一個人の喪失から、全ての創造物を特徴づける、愛と喪失の壮大な物語に解き放ってくれたのである。

喪からメランコリーに抜けていくこの悲哀の旅程は、我々をより壮大な愛と喪失の物語に結びつけてくれる力がある。この物語は、星にさえも届くものである。私は幾度も経験した。夜空の果てしない広がりが、私のメランコリックな魂の全くの鏡像(mirror)になっており、この真夜中の空が私を優しく包みこみ、落ち着かせ、私がどこかに置き忘れてしまってきたあの何かが、この宇宙との繋がりであるという気持ち、私自身がこの天与の聖なる創造物の舞曲に属しているという気持ちで一杯にしてくれたことを。

この観点からすると、私が思うに、フロイトが診断した患者は、彼ら自身の悲しみを通じて、この大きなものとの繋がりへの自我(ego )精神(mind)の渇望を、表していたのである。この繋がりは、我々が何世紀も前に自我精神を、前世紀の後半にその症状と共にフロイトの診断室へ足をひきずって入っていったあの自我精神を生み出したことによって、失ってしまったものであった。個人的な喪失と喪の過程を通じて、現代の自我精神は魂とそのより広い愛の野原との繋がりを失ったことに、悲哀を表していたのである。ここから、私は、メランコリーは魂がより精神を深め、個人の生を、その集団的で個人を超えた側面を含めて、取り戻そうとする方法であると考えるのである。

喪の過程を通じて語りかけていたのはこの喪失と悲哀のより大きな物語であったが、フロイトはそれを聴き取るための宇宙的(cosmic)な視点に欠けていた。魂のメランコリーを神経症的な症状とは異なるものとして聴くためには、我々はもう少し昔、おそらく500年ほど前に遡らなければならない。ここではフロイトが以前に用いた主題であるメランコリアは、四つの気質の形を取った。メランコリックな状態に加えて、そこには楽天的(sanguine)なもの、無気力(phlegmatic)なもの、そして怒りっぽい(choleric)ものがあった。それぞれの基本的な気質が、肉体の機嫌と星との複雑な関係を表現した人々を表した。もしこれらの言葉を理解することを我々が忘れてしまったとすれば、それは我々が、魂と星が一つであった、より大きな絵柄を忘れてしまったからにほかならない。

私の個人的な悲哀、喪、そしてそこから花づいたメランコリーは、このより大きな物語への理解を取り戻させてくれた。魂の道が私を導き、その行程において私は瞬間瞬間の一過性を大切するようになった、その瞬間が二度と来ることがないかもしれないということ、最後になってしまうかもしれないということを常に思って。


初めてのGuided Imagery and Music (GIM) セッションで経験した深い悲哀

2002年6月、私は初めてのGIMセッションを体験し、弟、祖母と私の3人は、私の心像の中で再会を果たした。最後に病院で会って以来、長い時が経っていた。私たちは明るい白い光に包まれ、まだ彼らが生きていた頃のこの世界における物理的な存在から、随分と進化していた。私は天使(Angel)という言葉を意識しなかったが、その言葉は確かにそこにあった。彼らはそのとき既に、天使としての存在を獲得していた。

医師であり、病気の中において祈りが持ちうる力について雄弁に論じているラリー(Larry)・ドッシー(Dossey)は、天使のことを失われた(missing)繋がり( link)と呼んでいる。精神から物質への降下であるところの招き(invitiation)の概念(これは、物質から理性への昇華を強調するダーウィン的な進化の概念とは逆の行路である)を弁護する彼の著書「天使たち:失われた繋がり」の中で、彼は以下のように述べている。「神と、天からの降下におけるあの最後の段階との間のどこかに、確かに存在するのが天使的(angelic)な領域(domain)である」と。私には彼が正しいのかどうかは分からないし、それを確かめる術は存在しない。彼の主張は経験的な事実に基づくものではないから。私たちの前に、天使の存在を刻み込んだ石や骨の化石は存在しない。それでもなお、私たちは何故か、この主張にある種の真理が宿っていることを知っている。仮に頭で理解してないとしても、私たちは心の中で知っている。精神と心が物事を異なった理解の仕方をする、というこのことは決定的に重要であり、ドッシーが指摘しているように、私たちが綿々と存在する天使の存在を感知するか否かは、私たちが物事をどのように見ているかという私たち自身の態度の問題なのかもしれない。きっと、批判的な精神は天使が存在する可能性すら疑い、彼らに居場所を与えることはできず、天使の存在を受け止めることはできないのだろう。そしてもしかしたら、私たちの中の悲しみが、精神と既存の物事の捉え方を壊し、私たちが本当に理性を失ったときに初めて、私たちには天使が現れるためのほんの小さな空間が空けられるのかも知れない。

私は彼らの声を知らないが、それは確かに私を和らげてくれた。彼らは以前とは異なる大きな存在となっており、違った形にくるまれていた。ドッシーは天使の存在とは私たちが物事をどのように見ているかに関係するという考えを更に押し進め、それは私たちがどのように聴く(・・)かということに、より一層関連していると述べている。彼はこう書いている。「天使が存在する証は、視覚的(visual)なものよりも、音響的(acoustical)なものであるかも知れない」。

おそらくこの最後の分析では、調律された心は、天使が現れるために不可欠な条件なのだろう。私が悲哀を経験するとき、心の中で奏でられる唄は悲しみのものであり、嘆きのそれである。ひょっとしたら、天使は私が痛みと悲しみの最中、喪失と悲哀にある最中にこそ、私をも包容してくれるのかも知れない。そしてそれが、私にとって天使(Angel)が孤児(Orphan)の別の顔であるように思える理由かも知れない。

この何年もの間、私は眠りにつく寸前に、この姿の祖母と弟に会った。そして、深くゆったりとした喪の過程が徐々にメランコリーに取って代わられるにつれ、私は天使の顔を何度も見た。私は信じるようになった、奈落の底に立つ孤児(Orphan)と同じように、この世界の端に立つ天使は私たちを個人の悲しみ、心理的な内面性と孤独の状態を超えたその先へ送り届けようと待っているのだと。天使は私にとって宇宙的(cosmic)な繋がり(connection)としか表現しようがないあの境地へ、初期の悲哀の時期から人間の領域を越えた力と繋がることができ、それに支えられていると感じることができたあの場所へ、エスコートするために待っているのだと。

私はゴッホの絵画、「星月夜(Starry Night)」を見ると、この全ての創造物と一体であるという感覚を取り戻すことができる。彼はあの鮮やかな天蓋の光の下、何を感じていたのだろう?私はあの絵画に喜びと悲しさを見出す。私たちもこれらの星雲の一員であり、この天なる光が私たちに触れ、天使的なものが私たちの魂のほこりを取り払ってくれるということに気が付いたことに対する喜び、そしてある種の祝賀(celebration)。私たちがこの全ての創造物との繋がりの瞬間からどれだけ離れてしまっていて、私たちの人生が常に喪失と悲しみによって中断されている、そのことに気がついたことに対する悲しみ。それでもなお、私は天使を見ることができた瞬間、私たちにとって最も深く痛みを伴う悲しみでさえ、精神的(spiritual)な強度(intensity)を持ちうることを知った。天使を通じて、私は個人的な悲しみや喪失が、精神的な変革の瞬間たりうることを知ったのである。
[PR]
by totoatsuko | 2005-06-04 09:10 | プロフィールとコンタクトinfo | Comments(0)

リンク

ミュージック・セラピーに関する主なリンク

http://sapporo.cool.ne.jp/komiyadan/
ニューヨーク大学大学院で共に学んだ音楽療法士、小宮暖のホームページです。素晴らしい音楽家でもある彼は、私が尊敬する音楽療法士の一人です。今は水戸を拠点に活動しています。

彼のリンクのページに日本で活躍する音楽療法士の方のHPがいくつか紹介されています。


http://www.jmta.jp/
日本音楽療法学会公式サイト。地方の音楽療法学会支部のサイトや、学会の情報が得られます。

http://www.musictherapy.org/
AMTA (American Music Therapy Association)
全米音楽療法協会のサイト (英語)


http://www.bonnymethod.com/ami/
ボニーメソッド ガイデッド ミュージック アンド イメジェリー 協会 (BMGIM) の公式サイト (英語)

http://education.nyu.edu/music/nrobbins/
ノードフ ロビンズ 音楽療法センター
私が学んだニューヨーク大学内にある、Nordff-Robbins Centerのサイトです。



霊気療法に関するリンク

http://www.reiki68.com/reiki_2/
霊気を始めた 臼井 甕男についてや、簡単な霊気についての説明が載っています。
[PR]
by totoatsuko | 2005-06-03 08:32 | 日々感じたこと | Comments(0)
line

音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
line
クリエイティビティを刺激するポータル homepage.excite