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カテゴリ:日々感じたこと( 97 )

仏陀の教えとVipassana Meditation

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2015年
今年もどうぞよろしくおねがいします。

日々インストラクションに従ってmeditationを11時間行うというプログラムで、
紀元前5~6世紀前に生きた仏陀(釈迦)が教えた Vipassana というメディテーションのやり方と、
その意義を学ぶ機会を持ちました。

この経験を通して、世界観や、自分の心の状態など、さまざまな事が私が求めていた方向へ
私の内側で変容し始めているのを、いま静かに感じ始めています。

Meditationの事も仏教の事も何も知らないに等しいし、
それらがどういうものなのか、という事について何も自分の言葉で語れるものがまだないのですが、
先生、S. N. Goenka が伝えていた仏陀の言葉や教えなどを、この場で何回かに分けて書いていくことで、
自分が経験した事を消化し、自分の一部にしていくプロセスを促していきたいと思います。
(英語ですが、Goenka, the World Economic Forum, United Nations で検索すると、
彼のスピーチを読んだり聞いたりすることが出来ます。)

と、、、紹介しておきながら、
以前の私は、たまに見聞きする仏陀の言葉を、今と同じように感じていませんでした。
その教えは素晴らしい、けれど、実際その教え通りに生きる事ができるのは、お坊さんしかいない、
いや、お坊さんですら全員は出来なくて、有名な仏教教祖しか出来ない、という感覚でした。

しかし、今回、以前も聞いたことがあるような仏陀が言っている事を聞いたとき、
ここ数年ずっと自分の中でぐるぐる回っていたけれど、
そのぐるぐる回っている内容が一体何なのか、自分でもしっかり掴むことが出来ていなかった事
まさにそのことを、本当に的確な言葉で表してくれている、
そう そういう事!私がずっと心でまわしていたものは、と感じました。

仏陀が言っている事は、殆どの人は実行することが出来ない、
とても素晴らしいものだけど、近づくことも、触れる事もできない高嶺の花、
ときどき聞いて、そうだそうだ、理想はようよね、と受け止める対象、という感覚から

仏陀が言っている事は、私にとってとてもreasonableで、まっとうな事で、
そのように生きたいと思えば、自分次第で誰にでもそのような生き方に近づいていく事ができる、
と、ストンと心におちました。


(続く)




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by totoatsuko | 2015-01-07 23:49 | 日々感じたこと | Comments(0)

代々伝わるもの Manton de Manila

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フラメンコの踊り手が使うマントン (羽織ったら床に届く位の大きさ)が ついに自分のものになりました。
クラスで、マントンを使った振付のレッスンが始まり、しばらくの間、クラスの先輩方に貸して貰ったり、自分が持っている小さなショールで代用していたのですが、いつまでも人のお世話になっているわけにはいかないので、時間を見つけて、フラメンコショップに足を運び、マントン なるものを探しに行きました。

しかし、なかなか コレ! と一目ぼれするものには出会えず・・・

自分が 本当に好き、と思えないものを買うのが嫌で、
好きと思えないものを買うくらいなら、無くて少し不自由をしながらでも、好き と思えるのを見つけるまでに時間をかけて出会いを待ちたい、と思ってしまうのです。

そんなこんなで月日がたってしまっていたのですが、やっと これなら と思えるものをみつけました。
美しいブルーのシルクに、白の糸の手刺繍。

マントンの正式名は Manton de Manila.
その昔、スペインの船がフィリピンのマニラによく寄港した際、中国からフィリピンに伝わった大判のショールをスペインに持ち帰り、そのショールの原型に、長めのフリンジをたくさんつけたスペイン風マントン。当時、上流・中流階級の女性達のファッションの一部として流行した後、一般のファッションとしてはあまり使われなくなったけれど、今でも、フラメンコの踊りの重要な小物の一つとして受け継がれている、というもの。

それぞれの家の家宝として、代々受け継がれてきたマントンもあるらしく、

そういうストーリーを持つ マントン というものを購入する、というのは、なにか雄大な歴史の一部に自分も加わるような気持ちがして、不思議な私の人生の流れを感じました。まさかマントンを扱うような振付を習うとは想像してなかったし、そもそも、マントンを使った振付がある事だって、習い始めたときは知らなかった・・・

カッコよく、ばさっと体に巻きつけてキリっとポーズが決まる所で、なぜかうまくマントンを操りきれなくて、クラスで一人、自分の頭にばさっとかかっちゃったりとかして、目の前まっくら。私に今なにが起こってるの~!? って感じで、まるで、布と戯れている子ども。目下 あたたかい失笑を買っています。 はぁ。。。

キマるところで決まると、本当に、立っているだけでも、たたずまいが もの凄くカッコイイんです。


色々、責任がある役割もやっている日々の中で生徒になりきれる時間は、私にとってとても大事な時間。

一つの事をずっと(といっても、フラメンコはまだ4年くらいですが、、、)続けていると、そこから派生して出会う人や、情報や、分野が広がって、思いもよらない展開が起こっていくのが、とても興味深いです。

そうそう、お声掛けいただいて、5月にフラメンコのライブハウス(タブラオ)に出ることになりました!
グアヒラスという曲で、コリンをはいて、お扇子を持って踊ります。


4年前に習い始めた時、
2年後に、
まさか、自分がフラメンコの発表会に出るとは夢にも思っていませんでした。、あの時、先生に声をかけていただき、背中を押していただき、とても勉強になる、心に残る経験をさせていただきました。

その時、
2年後に、
まさか、自分が タブラオに出る とような展開が広がろうとは、、、
もっともっと夢にも思っていませんでした。
先生がおっしゃるには、タブラオに出ることで、
スペインのタブラオで行われている、即興的な展開が起こるフラメンコの勉強にすごくなる、とのこと。

今から、気持ちが緊張です。
また、夜中にふと練習はじめちゃって寝不足になる日々がくるんだろうな。

5月は、本当に、お友達サークルじゃなくって、知らない人の前で踊る、ってことなので、、、自分の意識がどう変わるか。 どんな学びのプロセスが展開するのか、楽しみですが、しかし、正直、怖い。 

楽しみます!
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by totoatsuko | 2014-03-08 00:26 | 日々感じたこと | Comments(0)

ひな人形

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細部まで作家の意図が感じられるような、ため息の出るようなひな人形が飾ってあるのをみました。


子どもの頃は、毎年 家にお雛様が飾られました。

日本に帰ってきてからは、毎年、子ども達の保育園に飾られるのをみて楽しませて貰っています。


今回 まちで出会ったこの雛飾りは、お人形の衣装から、御車などのデザインや素材まで、うっとりさせられ、しばし 立ち止まってみとれていました。

説明文には、平安時代の時代考証を元に作られたもの、だとか。

調べてみれば、雛飾りにもさまざまな歴史があり、その歴史を知ると、一年に一回のこの雛祭りの意味もより理解できました。災いを祓う意味もあったんですね。自分では今の家に雛飾りも持っていないし、菱餅も用意する余裕がないけれど、展示や企画などで、雛祭り気分を味わわせてもらって、うれしかったです。



お人形って、不思議。
布と、木と、、、そんな素材で作られているのだけれど、顔がある事で、動かなくても、生きているように、何かを思っていたり、喋ったりしそうに思えてくるときがある。
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by totoatsuko | 2014-03-02 17:57 | 日々感じたこと | Comments(0)

それぞれが輝く・輝きで支えあう

d0065558_13555822.jpg 子ども達のクラスメイトの保護者との交流のあり方は、それぞれの子どもが属している学年によって全く違い、面白いなぁ、と思います。

たまたま、その保育園、その小学校や、その習い事の、
その学年に集まった子ども達と、その保護者の方たち。

偶然なんだけど、必然だったのか・・・
偶然だったけど、自分たちで ”その関係を育てていくことが出来る” 波長が合ったものを持っているグループであったからなのか・・・

先日は、お父さんたちが協力して、公共のBBQ場所の予約に並び、いい日にちを当てることが出来、
任意参加の、クラスBBQ会、がありました。

最近は、Papa's club と言って、クラスメイトのパパ達が集まって、
子どもや子どもの学校の話 and beyond の話する集まりもやっているのだとか。

お父さんの子育てのかかわり方、奥さんや地域の方とのかかわり方、協力の仕方、
というのは、本当にさまざまな形があるなぁ、と、話を聞いていて思いました。

何が常識、とか、非常識、 とか ないんですよね。

自分の知らない世界や価値観以外の方が、自分の知ってる世界の何倍もある。

自分の価値観は、天の川のほんのひとつの星くらいのものである、と自覚していたら、

人のことを、常識がどうの、 と言って批判したり、比べたりしなくてすむんじゃないかな、と思います。


天の川をつくっている、ほんの小さな砂金の一つに過ぎない自分ではあるけれど、
それでも、砂金である自分の存在には、誇りを持ちつつも、
一人では、あの美しい夜空を作ることはできない、仲間と一緒だからできることとして、

環境や、異なる価値観や生き方を持つ仲間も尊重できる、心からしたいと思うようになる。

一つひとつの砂金が 
天の川、という大きな存在と比べたら、それがどんなに小さなものであっても、
ひとつひとつが美しく輝いているからこそ、
自分が輝いていることの大事さを分かって、輝き続けようとする個々の意識が一つの集団=天の川 を作っているからこそ、おおきな天の川が美しく存在できる。




台風の合間の、さわやかな秋晴れの午後。


ベジタリアンであることは、周りの人に嫌な思いをさせている事なんだ、
と言う方も以前いたのですが、

ここ数年は、
「ベジなんだよね。好きそうなサラダつくってきたよ」
「ベジタリアンだと、何を食べるの?」 という、好意的な関わりをする方に多く出会い、

今、自分が置かれている環境が、とてもありがたいと感じました。



価値観が違っても、
いや、違うからこそ、攻撃し合わず、自分も相手も尊重する
自分のハートに恥ずかしくない言動を選んで、あるいは、自然としながら生きていきたいです。
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by totoatsuko | 2013-10-28 14:19 | 日々感じたこと | Comments(0)

野生性

d0065558_164051100.jpg人間も 生き物には変わりない。
なま身の肉体 という限りある生命を営んでいる点においては、野生の動物と変わりない。

でも、文明を築き 人工的な空間で 肉体が傷つくことや、その痛みを感じることが最小限にコントロールされるようになって、生きることのすざましさ みたいなものを感じなくても日々が送れるようになった。生きるための狂気、魔性、残虐性は自分でもどこに隠したか分からない心のどこかに収めておくのが現代人のエチケットになっている。

薬がない時代は、傷口が自己治癒力によって時間をかけて自然と癒えていくまで、その痛みと付き合いながら日々を送らなくてはならなかった。腫上がった肉や、朽ちていく自分の肉体を、今のように綺麗にガーゼなんかで覆うこともできず、そのグロテスクな自分の肉体から目をそむけることができなかった。

病によって気絶するほどの痛みを感じながらも 死ぬことも許されない悲痛な状態。それを傍観するしかなかった周りの人々。

どうしようも出来ないことに対する、引き裂かれるような心の痛み。


いまは全てが適度なオブラートをかけられ、自分の 表裏一体の生と死に畏れを感じることも無く、他人のそれを間近で触れることもなく 生物として生きている人間。その一方で、人工的な苦悩を次から次へと生産していく。

例えば戦争。
例えば殺しあうテレビゲーム。
例えば表層は美しく飾られているがその一枚下でおおきな渦を巻いている心のアンバランスが生み出す虐待・自虐行為・出口のない憎しみあい・殺しあい。

しかしそれらに対してすら わたし達は心を閉ざす。
自分達が作り出した痛みは一人歩きをはじめ、空気の密度をにごしていく。
行為として 生と死 を扱うが、心はそこに存在する痛みを感じていない。
本当は叫び声をあげている自分の心を他人事のようにとらえて、
本当は痛みを感じているのに、神経を切り裂いて、感じないようにして、
痛みなんか存在しないように振舞って世間体を保ち、自嘲的な甲高い笑い声を発し続けるだけ。
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by totoatsuko | 2007-02-07 16:40 | 日々感じたこと | Comments(0)

出席停止

d0065558_15533148.jpg期限切れ騒動の記事を書いていて、いじめに対する政策案の事を思い浮かべていた。

首相が、いじめた子供には出席停止を、と言っているが、またうわっつらな議論しかしてないんだな、この人たちはと思ってしまった。悪い、とレッテルを貼られた人に罰を与えれば、いじめてしまうその子の心理や行動をはぐくんだ人間関係・生活環境が変わるとでも思っているのか?

間違いに気付いた企業が、変革しようとしているのに、社会は企業いじめにもっぱら忙しくて、変革のためのサポートは誰もしないのと同じだ。

いじめられっ子と、いじめる子の立場は、時に逆転する。ささいな心理変化で。
昨日のジャイアンが、今日はのび太でありうるのだ。

今の子供達の心の危機を - ひいては子供達をはぐぐむ場である過程・地域・先生の心の危機の深刻な構造をきちんと理解している人間は、政府の諮問委員会に入っているのだろうか?もしいるとしたら、その人の声は周りに届いているのだろうか?

子供たちは、将来おとなになり、子供を育てる、社会を構成していく。
子供達がすくすくと成長できる、心の状態が危うくなりがちな思春期やモラトリアム期をうまく乗り越え、脱皮しながら大人になっていける環境をつくっていかなければならない、という危機感、どれだけの日本人が感じているのだろうか?
出席停止、なんてうわっつらのうわっつらのようなバカげた対応をし続けているかぎり、絶対にいじめる側、いじめられる側、どちら側の子供達の心も安定しない、安全に成長できない、救われない。
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by totoatsuko | 2007-01-24 10:54 | 日々感じたこと | Comments(0)

期限切れ騒動

d0065558_15525189.jpg不二家が、社内の規約を無視して、品質管理をきちんとおこなってこなかった姿勢は、確かに企業倫理という点からみれば、自覚が甘かったと糾弾されてもしょうがない。いまや日本企業も、利益を上げればいいだけではなくて、社会や環境にどれだけ貢献しているか、というのもawareであることに迫られている。この感覚は、アメリカで80年代に多くの企業不祥事が起こったころから議論され始め、その流れが日本にようやく流れ着いてきた感があるのだけれど、やはり同じものでも、日本にくればその性質は違って解釈・利用されているような気がする。

うまく言えるかどうか自信がないのだが、、、
アメリカは企業内でチェック体制や、不祥事が起こらないシステム(人を教育するとか、人事体制を変えるとか)を変えるが、社会は社会で企業やブランドを100%信用しきっていない。こっちはこっちで企業を監視していく義務があると自覚しているような気がする。

かたや日本は、悪いことが発覚すると、当事者を感情的に責めまくり、あわや廃業 まで追い込む。どうやったら同じ過ちが繰り返されられないように出来るか、という建設的な意見や議論が大衆の間でうまれない。失敗は成功の元、 なんてことわざを生んだ日本だが、あまりその精神は失敗した人に対して適用されないようだ。セカンドチャンスが与えられない社会では、何か間違いを起こしたと気付いても、恐ろしくて世間に告白できないだろう。変わる 第一歩を踏み出せないだろう。

間違いに気付いた → 公表し、変革の決意を宣言する →そんなの今まで嘘ついてきたんだから信じられないと罵倒される → つぶれるまでぼこぼこにされる

間違いに気付いた → 公表した場合に受ける仕打ちを恐れて隠蔽する → 隠蔽がばれる →変革の決意を宣言する →そんなの今まで嘘ついてきたんだから信じられないと罵倒される → つぶれるまでぼこぼこにされる


どっちのルートをたどっても結果が同じではね。。。

賞味期限なんて、参考に過ぎない、と私は思っている。
賞味期限内でも、私の手に渡る過程で的確な保存がされていなかったら、腐っている可能性だってあるのだから。それに、わたし達には目と鼻と舌があるでしょう?刻印された数字を鵜呑みにして、自分の感覚を疑うなんておかしな話じゃないですか?どちみち、それをフルに使っても、期限内だって、中毒になってしまうことはあるのだから。
こちらは、ちょっと面白い投稿。
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by totoatsuko | 2007-01-24 09:21 | 日々感じたこと | Comments(0)

愛すること vs 恋すること

d0065558_15503844.jpgある人と話していて、「愛すること と 恋すること の違いが分かっていない若い人が多いよね。特に男の子なんか永遠にそういう傾向があるよね、愛される側に立ってることが多いから。
~ 愛することは、ドキドキすることとは違うんだよね。いつもドキドキしていたい ってのが恋で、そういうの追い求めてる内は、本当に人を愛せないよ。」 とその人が笑いながら言う。

男性のほうが 愛することを知らない傾向にあるかは別にして、
妙に その人が言う愛 と 恋 の違いのくだりが しっくりきた私。

恋しているときの 胸が締め付けられるほど苦しくなったり
ささいな事で 瞬時に世界の色合いが 真っ暗闇になったり バラ色になったりもする
ささる様な痛さ、切なさ、胸が躍る喜びと幸せ それらが絶え間なく交錯するスリル。

かたや、愛してる感覚は もう少し安定した セグメントが長い 暖かい感情の広がり。温度は熱くなったり低くなったりするけれど、恋しているときほどブレがない。恋してるときほど、頻繁に強い刺激がないけれど、そこに漂うものは、恋ではおこらない深い深いものがある。

私は、自分の親や子供には恋しないけど、愛は感じる。

私の今のwonderingは、一人の人間との関係で恋と愛は同時に両立するか?ってこと。
パートナーを、時に恋愛対象として、時に愛する対象として、異なる視点や関係を紡ぎだし、感じることが出来るだろうか?そして、こちらもパートナーの心にどちらの感情も生み出させる対象であり続けられるだろうか?
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by totoatsuko | 2007-01-23 09:19 | 日々感じたこと | Comments(0)

電話カウンセリング

d0065558_15513688.jpg友人から ちょっと愚痴をきいてよ、と電話がかかってきた。
愚痴っているのは分かってるけど、愚痴らずにはいられない、というか、この不安な気持ちを聞いて欲しい、勇気づけてほしい、と言う。

私は、友人として思うことを 友人としてべらべらと喋った。
こう考えたらいいんじゃない?とか、こうしてみたら?とか。

ひとしきりお互い喋って、友人が、あーよかった相談して、すっきりした、カウンセリング代今度払うよ、なんて冗談交じりに言うので、そうか、世の中には電話カウンセリングという商売も常識的に存在しているな、と思い出した。

相手の顔も見ずに、相手の潜在的な気持ちを引き出す試みもせずに、こうしたほうがいい、ああしてみたら、なんていうのは、私にとっては友人として接しているから言えるのであって、セラピストというプロフェッショナルな立場で相手と関わっているときには絶対とらない態度である。

その人にとって、何がベストチョイスなのか、なんて絶対他人には断定できない。心を扱うプロなら、尚更だ。尚更、自分がクライアントの心を完全に理解した気になり、相手に指示を出す事が、いかに浅はかであるか知っているはずなのだ。それに、相手が自分で解決するチャンスを奪っている事にもなる。

電話カウンセリングは、クイックフィックス(手短に解決する)を望む現代のニーズに一見あっているのだろう。セラピストのオフィスにわざわざ足を運ばなくていいし、自分なりの道筋や方向を、心の深いプロセスを通して見つけていくような時間とエネルギーを使うかるかったるい作業を飛び越えて、心のプロという「権威」が示唆してくれる答えをその通りやれば、その場しのぎが出来た気になれる。

時間がない人が多い時代には、こういうサービスも不可欠なのかもしれない。
これで、救われる人も沢山いるだろう。
でも、これは私の仕事ではない、と思う。
(GIMセッション、音楽心理療法を受けたことがある人なら分かるけど、このセッション形態、明らかに電話越しでは不可能です。)

相手の顔もボディーラングエッジも見ずに、かもし出す雰囲気・エネルギーを電話越しでしか感じられずに、私は何も出来ない。気休めをいう事は簡単だ。友達を励ますように、クライアントに接すればいいのかもしれない。でも、セラピスト・クライアントの関係と、その関係の目的は、決定的に友人や家族との関係とは違う。

簡単に人工的に曲げられるものは、その人工的な圧力の存在が消えるとすぐもとの形にもどってしまう。

私は、そういう変化を心にもたらすのではなく、その人の内面から自発的に変わっていくプロセス、私との関係が終わっても、その変化の過程が続き、発展していくようなプロセスを生む関わり方をしていきたいと思っている。
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by totoatsuko | 2007-01-22 14:51 | 日々感じたこと | Comments(0)

Home

d0065558_23265918.jpgホーム、
それは何か暖かいものを彷彿させられたり、安らげる場所であるはずなのに
家族間の殺し合いが行なわれて世間を騒がせるようになってしまった。

NYの癌の病院で音楽療法セッションをしていた時、家にまつわる歌をリクエストをする人が多かった。その人たちにとって家とは、単なるハコではなく、機械的に帰る場所でもなく、自分の生きてきた歴史や、自分が育んできた大切な家族との関係の匂いや、暖かさがぎゅっと詰まっている何にも換えがたい場所の象徴だった。

Home
わたし達の心の家はどこにあるのか?
世間のしがらみや、悪天候から守り、自分が自分であれる場所。自分が必要な暖かさと、休息と、エキサイトメントが得られる場所。それは、空間に限らない。人間関係だったり、物だったりもするだろう。


Home
そもそもわたし達は Homeがある事を信じられなくなっているのか?
それとも、心が安らぐ場所がある、ということ自体を成長する過程で体験したことがないため、その存在を知らず、それゆえ、求めもしないのか。

いや、そんなことはないと思いたい。
誰しも生まれた直後、やわらかい乳房をまさぐりながら暖かいミルクを飲みお腹が満たされていく、そして心地よい眠気に誘われていく経験があるはずだ。(その直後から虐待される子供もいるが。。。) ただ、その記憶は残りの人生に残らないのか。

成長するにつれ、自分が満たされる条件が複雑になっていく。生きている環境も苛酷になってくる。赤ちゃんの時のように、ただ泣いて誰かが自分を幸せな気分にしてくれるのを待っているのではなく、自分自身で、自分を満たすすべを身につけていかなくてはならなくなってくる。
親や友達に認められたいと思っても、お母さんの乳房のように無条件には与えてもらえない。
むしろ、否定され、突き落とされる可能性だってある。
そして心があまりにも傷つけられ続けると、Homeなんてないんだ、この世は生きるのに辛すぎる、人は信じられないと無意識のうちに学習していくのかもしれない。

そんな人にとって、自分が誰かのHomeの一部になれるなんて思いもよらないだろうし、第一、どんな風な関係がhomeなのか分からないのかもしれない。自虐的だったり、自己犠牲的だったり、自分の愛情を一方的に送ることが相手にとって安らげる関係と勘違いしてしまうかもしれない。

Home
社会で生きるためにつけている色んな仮面や衣装を脱げる場所
心も体も魂も休める場所、エネルギーをチャージできる場所
自分にとってかけがえのないユニークな場所

現代人にとって、それはどこにあるのだろう?

(写真は、福徳ーふっとこ という金沢のお正月の縁起物菓子。それぞれの中に七福神の砂糖菓子が入っている)
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by totoatsuko | 2007-01-11 23:28 | 日々感じたこと | Comments(0)
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


by totoatsuko
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