自分らしくある、というプライド
プライド、というのは時としてやっかいなものだ。
あの人はプライドが高くてやな感じ、とか
プライドだけ高くて中身がない、とか
そんな風にネガティブに使われることが多い。
こう評されてしまうのは、自分自身でもっている自分に対するプライドが、他者にたいする見栄、というものに自分の中で知らないうちにすりかわってしまっているかもしれない。
自分のプライドにかけて取り組む仕事、役柄。
手抜きは自分自身が一番許せないはず。
例えば社長というプライドがあるなら、会社を背負う社長という役柄を担っている、ということは決して忘れることは出来ず、自分の言動・選択をいい加減にはできない。社長であることの辛さも喜びも味わう。人の上に立つことの快楽や権力への執着だけが全面にでていたら、それはプライドが見栄にすり替わっていくプロセスが起こっているのかもしれない。
会計士が不正会計に手を染めてしまったら、その人には会計士としてのプライドは無いのかもしれない。
それとも、会計のプロとして不正会計を完璧に隠す仕事にプライドを感じているのかもしれない。
プライド -ではなく見栄っぱりなゆえに、「そんな事は出来ない」とか言ってしまってチャンスを逃してしまったり、本当はやりたいと思っていることができなかったりはしないか?
プライドを持つって、素晴らしいことだと思う。自分が自分らしくあるというプライド。
自分がじぶんらしくあることへの執着。
自分が自分らしくあり、それを自分自身が肯定的に受け止めるには、まず自分自身が自分自身の選択に納得していないといけない。
納得できないことをなんとなくやっている事に対しては、プライドは持てない。
プライドがあれば、その事柄に一生懸命取り組む。試行錯誤する。自分のベストをつくす。
だって、プライドがかかっているのですもの。
そして、そのプライドを保つためには自分以外に多くなくていいから絶対的な無条件の愛を注いでくれるサポーターも必要。自分だけで自分のプライドを守るのは、出来ないことはない、と思うけど、辛すぎる。
どんなに世間一般から、あるいは家族からこき降ろされようと、自分のプライドを守るための血がにじむ努力を見守り、記憶し、決して見捨てない誰か。なかなか見つかるものではないけれど、そんな人がいたら、周りからどういわれようと、自分の本心が望む、自分らしいあり方、生き方を追い求めることができるのではないだろうか。
そんな事を書いていると、
自分はプロフェッショナルとして、音楽心理療法士としてのプライドは意識したことがあり、それゆえプロフェッショナルな仕事をしようと真剣に取り組んでいるけれど、
母親や妻や女性としてのプライド、って意識したことが無かった。
母親としてのプロフェッショナル意識を持ったなら・・・
なにげなく、あるいは勢いで子どもを叱るのが減るかも。だって、そんな母親でありたくないから。そういう母親である自分が母親であるといのは、プロフェッショナルな母親としてのプライドー誇り、を感じられないから。
妻である、女性である、ということに誇りをもって、その役割・生を生きているなら、出来ること、出来ないこと、感じる喜びや苦しみの大きさの変化が起きそうだ。
完璧主義は自分を苦しめる。
もっと自分に優しくなろうよ、出来ない自分を許してあげようよ、という傾向が悪いとは思わない。
でも、自分が生きている自分の沢山の役割に対してそれぞれのプライドを自覚したら、
もっとその役割を楽しめたり、
もっと自分の本心に耳を傾けようとし、
回りにながされて何となくまあいっか、あんまりそういうの好きじゃないけど、まあいっか
じゃなくて、
私はこうしたい。
こんな生き方がしたい。
自分のこだわりを実現できる大きな喜びを味わいたい。
それに対しての批判も異論も受け止める覚悟はする・プライドを持って生きる代償として。
(どうして未だに日本は人と違うと攻撃されちゃうんだろ?)
そんな風な生き方の・心境の変化がおきはしないか。
自分らしくていいじゃない。
世界に一人しかいない「自分」にプライドもっていいじゃない。
それくらい、真剣に生きているんだから。
あの人はプライドが高くてやな感じ、とか
プライドだけ高くて中身がない、とか
そんな風にネガティブに使われることが多い。
こう評されてしまうのは、自分自身でもっている自分に対するプライドが、他者にたいする見栄、というものに自分の中で知らないうちにすりかわってしまっているかもしれない。
自分のプライドにかけて取り組む仕事、役柄。
手抜きは自分自身が一番許せないはず。
例えば社長というプライドがあるなら、会社を背負う社長という役柄を担っている、ということは決して忘れることは出来ず、自分の言動・選択をいい加減にはできない。社長であることの辛さも喜びも味わう。人の上に立つことの快楽や権力への執着だけが全面にでていたら、それはプライドが見栄にすり替わっていくプロセスが起こっているのかもしれない。
会計士が不正会計に手を染めてしまったら、その人には会計士としてのプライドは無いのかもしれない。
それとも、会計のプロとして不正会計を完璧に隠す仕事にプライドを感じているのかもしれない。
プライド -ではなく見栄っぱりなゆえに、「そんな事は出来ない」とか言ってしまってチャンスを逃してしまったり、本当はやりたいと思っていることができなかったりはしないか?
プライドを持つって、素晴らしいことだと思う。自分が自分らしくあるというプライド。
自分がじぶんらしくあることへの執着。
自分が自分らしくあり、それを自分自身が肯定的に受け止めるには、まず自分自身が自分自身の選択に納得していないといけない。
納得できないことをなんとなくやっている事に対しては、プライドは持てない。
プライドがあれば、その事柄に一生懸命取り組む。試行錯誤する。自分のベストをつくす。
だって、プライドがかかっているのですもの。
そして、そのプライドを保つためには自分以外に多くなくていいから絶対的な無条件の愛を注いでくれるサポーターも必要。自分だけで自分のプライドを守るのは、出来ないことはない、と思うけど、辛すぎる。
どんなに世間一般から、あるいは家族からこき降ろされようと、自分のプライドを守るための血がにじむ努力を見守り、記憶し、決して見捨てない誰か。なかなか見つかるものではないけれど、そんな人がいたら、周りからどういわれようと、自分の本心が望む、自分らしいあり方、生き方を追い求めることができるのではないだろうか。
そんな事を書いていると、
自分はプロフェッショナルとして、音楽心理療法士としてのプライドは意識したことがあり、それゆえプロフェッショナルな仕事をしようと真剣に取り組んでいるけれど、
母親や妻や女性としてのプライド、って意識したことが無かった。
母親としてのプロフェッショナル意識を持ったなら・・・
なにげなく、あるいは勢いで子どもを叱るのが減るかも。だって、そんな母親でありたくないから。そういう母親である自分が母親であるといのは、プロフェッショナルな母親としてのプライドー誇り、を感じられないから。
妻である、女性である、ということに誇りをもって、その役割・生を生きているなら、出来ること、出来ないこと、感じる喜びや苦しみの大きさの変化が起きそうだ。
完璧主義は自分を苦しめる。
もっと自分に優しくなろうよ、出来ない自分を許してあげようよ、という傾向が悪いとは思わない。
でも、自分が生きている自分の沢山の役割に対してそれぞれのプライドを自覚したら、
もっとその役割を楽しめたり、
もっと自分の本心に耳を傾けようとし、
回りにながされて何となくまあいっか、あんまりそういうの好きじゃないけど、まあいっか
じゃなくて、
私はこうしたい。
こんな生き方がしたい。
自分のこだわりを実現できる大きな喜びを味わいたい。
それに対しての批判も異論も受け止める覚悟はする・プライドを持って生きる代償として。
(どうして未だに日本は人と違うと攻撃されちゃうんだろ?)
そんな風な生き方の・心境の変化がおきはしないか。
自分らしくていいじゃない。
世界に一人しかいない「自分」にプライドもっていいじゃない。
それくらい、真剣に生きているんだから。
by totoatsuko
| 2009-07-16 22:59
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