ゴールの無いマラソン
母親として出来ることをし、
子育てを楽しもうと、大変なものも大変じゃなく感じるようにやろうと工夫したり、
家族との関係がいいものでありたいと願い、そのために出来ることをしようとしていて、
音楽心理療法の仕事と勉強をし、マクロビオティックの勉強と実践をし、
感性が刺激されるようなイベントや人との出会いにアンテナを張って
個人としても、家族の人としても、仕事の私としても、成長し楽しもうとしている「私」。
どの銘柄にも、昔のような全力疾走をしていないが、
どの銘柄にもマラソンのように継続的に長期的に取り組んでいる。
それは、全力疾走していた時期が長かった私には、時にはがゆく感じられる。
疲れて休息をとったり、同時進行でいろんなことをすることで、到達したい地点まで望んでいるより随分時間がかかってしまうの自分が許せなく感じるときがある。
誰も、そんな今の私のペース・スタイルを責めないのに、Goal orientedな側面の自分が、Process orientedな自分を尊重出来ないがために内部矛盾が起こって、私を苦しめる。
歯をふんばって、いつ息がきれてもおかしくないくらい全力疾走していたときは、
自分が1人で、取り組む銘柄もこんなに多くなかったし、ある一定期間中に得たいゴールに向かっていた。
いま私が抱えている銘柄には、どれにも明確なゴールが無いし、
自分ひとりではコントロールしきれない偶然性が複雑にからみあっているものだということに、改めて気づく。
そこには、自分が設置したゴールがあるレースでは決して出会えない、自分の想像力を超えるクリエーティブなハプニング(出会い・結果・経過のプロセス)が起こる余白が沢山ある。
ゴールが見えないものに対して全力疾走はできない。
どこに向かって走るべきなのか、というのが存在しないから。
どれだけ頑張ったら、どれだけ走ったら、いつぐらいに、「自分を満たす何か」を確実に手に入れられる、というのがないから、どういうペース配分で、自分のエネルギーを投入していっていいかわからない。分からないまま全力疾走するのは危険だ。まだまだ道はつづくのに、エネルギーを使い果たしてしまうかもしれない。
ゴールが明確でないものには、存在しないゴールを目指して全力投球するのではなく、
走っていること自体を楽しむ以外、その、ひとりぼっちの、あるいは自分自身とのレースを続けることはできなくない。
あと1年死ぬ気でがんばったら欲しいものが手に入る、だから、この苦しさを死ぬ気で乗り越えて、徹夜でも借金でも、何でもして乗り切ろう、という戦略は使えない。
時に、足をゆるめて景色をみたり、疲労を感じて座り込んだりすることは、短距離走では決して許されないが、
ゴールのないマラソンでは、どんな風に休んだり、どんなふうに自分らしく気を散らしたりしながら、いかに楽しみながらゴールのない、という途方も無い人生、というロードを「楽しみながら続けられるか」「自分らしい彩りにできるか」、というところに本質があるんだ、と改めて思った。
人事担当の夢なんて聞いても何の参考にもならないだろーと心の中で思いながら、彼・彼女らが期待しているような小綺麗な夢を話す。
ただ、話しながら考えるんだよね。実際、自分の夢は何だろうって。
具体的に単語で表せるようなものではないし、所謂社会的な役割でもないように思う。
あくまでイメージでしかないような。それも日々刻々と色合いやタッチも変わる。
夢を持つことや目標を持つことは悪いことではないだろうけど、お仕着せがましくなにかそれを既製の言葉に押し込めることはしたくない、なんてふとかんがえてしまったよ。
とりとめなく雑感です。