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権威の否定が生き辛さにつながる?

権威の否定が生き辛さにつながる?_d0065558_13125822.jpgある人の考え方。
権威の否定が生き辛さにつながる
何か(例えば、宗教・先生・上司・親・社会の規律)を否定しよう、というのが、生き辛い感を引き起こしてるのではないか。

そうなんだろうか?
権威を持ったことがなく生きるほうが、つらいような気が私はする。
成長していく過程で、自分が自分の権威となれるようになるためには、外部の権威との関わり・ぶちあたり・自分と相手を試す経験の積み重ねがなければ不可能だ。

例えば、絶対的で理不尽な親。

自我がなく、自分の意志が何たるかも知らない内は、そんな親も権威とは感じないだろうが、自分 というものが育ってくると、その「自分」が望むものや、「自分」自身のありのままの状態に対して肯定・否定のメッセージを伝えてくる親は「権威」となる。
顔色をうかがうし、自分の意見より権威の意見を尊重しなくてはならない。
小さい子供にとっては相当な権威だ。恐れる相手だ。
しかし、それくらい強くてパワフルでゆるぎないからこそ、子供の内面が揺れている時は、かけがえのない心の拠り所となる。

また、自我が育ち、物事の判断も自分で出来るようになり、絶対的で理不尽な親の「まちがってる」「理不尽」な側面を見つけたとき、子供は権威と対決するチャンスを得る。
絶対正しいと思っていたけれど、絶対間違ってる事がある。
絶対正しいと思っていた事が、自分にとっては正しくない、というのをクリアーに認識する。

子が親の絶対性を破り、真に自分が自分の権威となるため =他人がもつ権威に振り回されない人間になるためには、親という権威との対決が不可欠だ。何が親にとって正しくて、何が自分にとって正しくないか指摘する。親の絶対性が強ければ強いほど、指摘する・対決するハードルは高くなる。当たり前だ。親が偉大で強くて破壊力のある相手であればあるほど、戦いを挑むのは恐い。こちらも、しっかり自分をもたないと、簡単に言いくるめられてしまう。その戦いに負ければ、反逆者のレッテルが貼られ、自分も敗北者として自分にレッテルを貼り、その後、権威に対抗する・自分をしっかりもち、その自分に挑戦してくる相手と自信を持って渡り合うことが出来にくくなってしまう。

「権威」捨てた先生や親をよく見かける。
子供の気持ち・希望を尊重する、という題目のもと。

乗り越えるハードルがない子供達。

乗り越えなくてはならないハードルがない人生は、楽かもしれない。
でも、なんの節目もないただ平坦な道を永遠に歩き続けることは、もっと辛いことかもしれない。


私はマクロビオティックな生き方をしたいと思っているし、それは子供達に提供する食事にも反映する。ある日数家族で焼き肉屋に行った。他の家の子供達が「肉!肉!お肉ちょうだい!」と叫んでいる横で、私の子供達はゴハンとナムルをもくもくと食べていた。そして、横に座っている自分の父親がお肉をほおばっていると、私の顔色をうかがいながら「お肉頂戴」とお願いし、ちっちゃい破片をもらって口に入れるときも私の顔を見ていた。みんなが食べているものを自分も食べたい、と思うのはとても自然だと思う。ひとかけら食べて満足したのか、またゴハンに戻っていた。

まだ何故私がお肉を食べないか説明してもよく理解できない年齢だけど、お肉は食べないもの、という認識は私の権威によって植え付けられているようだ。だから、お肉を食べるとき、その権威の顔色を伺いながら、母親と違う価値感をもつ父親という権威に心理的にサポートされて、自分の素直な欲求(お肉を食べる)を手に入れた。

まだ、彼には私に真っ向から対決するほど強い自我と智恵が備わっていない。
だけど、いずれ時が来る。何故お肉を食べさせてくれないのか?肉を食べて何が悪いのか?母親にとって悪いことが自分にとって悪いこととは限らない。 そんなフツフツとした疑問が。そして、私にそれをぶつける体力をつける。

私はそんな日を待っている。
顔色をうかがわなくてはならない母親の子供なんて可哀想、という意見があるのも知っているが、今、子供にとって私が時として顔色をうかがわなくてはならない権威的な存在であることに何ら悪気を感じない。乗り越えるハードルが高いほど、ぶち当たる数も増え、自分が何たるか、相手が何たるかを知ろうとする機会が増える。

私の子供達が、私の権威を必要としなくなり、自分が正しいと思うことを正しい、と誰の顔色もうかがうことなく言えるようになる日を待っている。

仮にマクロビオティックの理念が自分にとって合わない、と将来子供達が思ったとき、
マクロビオティックな食事をする私に対して変に批判的な気持ちをもたず、
かつて自分の権威だった私に対して罪悪感をもたず、
マクロな私の前だけマクロをやってるふりをするのでもなく、
マクロでない自然体の自分で、マクロな私と関われるように。

自分が自分の権威で、それ以外のものである必要はない。
誰かに自分のルールを押し付ける事はできないし、押し付けられる筋合いもない。
そう、心の底から信じて、ありのままの自分を自分自身が受け入れられる生き方ができるといい。そのためには、成長の過程で、権威の否定・権威との対決というハードルを何度も何度ものりこえていく必要があるだ。

ハードルである、ということは疎まれる・攻撃の的になることもある。辛い事だ。
でも、それは母親として喜んで引き受けようと思う。それが子供の自我の成長に必要な心理的抑揚だと信じているから。

折りしも、少年が「引きこもりを打破したかったから、父親を刺した」という事件があった。
引きこもりな自分や父親 - という打ち勝つことの出来ないもの・ある意味権威ーを乗り越えるために、肉体的に殺す(実際は命は落とされなかったようですが)、という方法しか選べなかったのは悲劇だ。
by totoatsuko | 2009-01-09 13:10 | Comments(7)
Commented by yoko at 2009-01-09 19:11 x
疑問に思ったのですが、どうしてそのような場所に子供さんを連れて行くのでしょう。
マクロを子供さんにも実行されているのなら、どうせ食べないのはわかっているのですからかわいそうではないでしょうか。
通常の食事に数家族で行ってたまたまでたお肉を食べないのならともかく、なぜわざわざ焼肉にいってお肉を食べない選択をわざわざするのでしょう。
子供さんもお友達がうらやましかったりしたと思うし、また他の家族の方も自分たちの食生活がよくないものだとtotoatsukoさんのお肉ボイコット的行動によって認識させられる面もあるわけで、お互い不愉快になりませんか。
教えてください。
Commented by totoatsuko at 2009-01-10 08:23
少なくともわたし達はお互い不愉快にならずに付き合うことができています。焼き肉屋でお肉を注文せず他のメニューを食べる、という事をしてはいけない、というルールはどこにもないですし。

周りと違う生き方をすることに対して罪悪感を持つ必要もないし、自分と違う生き方をする人を否定する必要もない。お肉を食べないことをボイコットと受け取るかどうかはその人次第。ただ、ありのままに「あつこさんはお肉を食べない人」という認識で、批判的な感情は存在していないです、この仲間の間では。私もボイコットしてるつもりはなく、ただ自分の生き方をしてるだけ。相手と違う理念・哲学を持っていても仲良くできる。違いを認めあい、お互いの哲学を尊重しあえる人間関係。そういうスタンスはアメリカでは当たり前だけど、日本では避けられたり疎まれたりしがちな関係ですよね。幸い、この仲間はみんな欧米在住経験はないけれど、個人の違いに対してオープンです。
Commented by totoatsuko at 2009-01-10 08:23

子供達には、違いが認め合える、人とは違う信念を持って生きることに劣等感や罪悪感を持たずに自分の信念に自信を持ち、自分の感覚や感性に素直に生きてほしい、そういう生き方が出来る人間になって欲しいとおもっています。
だから、お肉を食べる人とも普通に付き合うし、お肉を食べる人の前で普通にお肉を食べる人に対して批判的にならずに食事をする。
人間千人いたら、千通りの生き方・哲学があるのだから。千通りの生き方があって、それはそれでいいんだ、ということを幼少の時に感覚的にみにつけられるといいな、と思います。
時々、マクロビオティックを実践している人が、マクロをやっていない人とは付き合えない、と言っているのを聞きますが、お肉を食べないから、お肉を食べる人と付き合わないとか、そういう場行かない、って決めてしまったら、人生の楽しめる枠がすごく狭まってしまい勿体ないと思います。
Commented by yoko at 2009-01-13 02:20 x
お返事ありがとうございます。

きっと今いただいたようなお返事が来るだろうなとは思っていました。
少し私の質問の意味が違って伝わったようですので補足します。
焼肉店でもちろんお肉を食べるなという規則はありません。そしてtotoastukoさんの周囲の方も同じように意識が高い方なのでしょう。もちろん人間にはいろいろな生き方や思考がある訳で、それを尊重するのはとても大切なことですね。

私がいいたいのは、貴方がお肉を食べないということを尊重しているはずの友人が「焼き肉」を選ぶことに対して疑問もを持っているのです。通常の食事でも食べないと選択されるものが多いでしょうに、なぜ食べないものが主体のそれも専門店にいくのか。

Commented by yoko at 2009-01-13 02:21 x
それはご友人がどうしてもいきたいお店だったのですか。どの種類のお店に行っても必ず何かしら食べられないものがあるとご友人は認識をされているでしょうからプリファレンスの決定の要因から外れているのでしょうか。そしてtotoastukoさんはノーとはいえなかったのですか。よく日本やアメリカという対比をされますが、(そして私も無知なる日本在住日本人というアサンプションの上で話されている感がありますが)お肉を食べないという選択をわざわざお肉屋でする必要がどこにあるのかということがお聞きしたいのです。個人の意見の尊重ということをに重きを置くのであれば、いかないという選択もあったはずです。または別の提案もできたはず。そのご友人たちは、どうしてもっとミューチュラルに皆がそこそこエンジョイできる食事を選ばなかったのでしょう?たとえば和食だったらtotoatsukoさんでも食べようと思えるようなお店が焼き肉に比べればそれはたくさんあり、そして食する喜びから得られる楽しみも増えたはずです。
Commented by yoko at 2009-01-13 02:23 x

そしてこの記事では権威について書かれていますが、ブログ内容から察するところ子供さんは食に関しては totoastukoさんに従っていらっしゃるのですね。そしてtotoatsukoさんの旦那さんはお肉を食べられる人。家族全員がマクロな人だとわかっているのに、どうして焼き肉に連れて行かれるのか疑問です。
totoastukさんが子供さんたちへの食事の権威なのはわかりました。でも家族が食事をするお店を選ぶのは、その上の権威だと思われる旦那さんが決定されるのですか。
子供さんはこんがらがりませんか。(以前一つの家庭で主導権がいくつかある場合の子供としての混乱を書かれていたので、相反してると思い聞いています。)
Commented by totoatsuko at 2009-01-13 11:20
実際会ったことがない人とこういう議論を、ブログという場所で重ねていく難しさー誤解とか伝えきれないこと、などが積み重なっていくから - を感じながら、投げかけられたご意見に答えてみようと思います。

新年会の場所に焼き肉屋を提案したのは、私です。そこのお店が好きでみんなに是非紹介したかったから。今回私はお肉食べなかったけど、みんなととても楽しい・美味しい時間が過ごせました。

食事をするお店を決めるのは、夫婦どちらかのときもありますし、一緒に決めるときもあります。

家庭内で異なる主導権 - というか両親が異なる価値感をもっていても、親として子供に伝えたいメッセージは何か、というのがクリアーであれば、またそのメッセージを分かりやすく子供達に伝える努力をしていれば、必ずしも混乱するとは思いません。
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