キャパシティーの配分 II
そちらを優先せざるを得ない状況に簡単になってしまう。自分のケアとか自分が何感じてるかとか何したいのかとか何を今失おうとしてるのか、とか考えてる時間は簡単にふっとんでしまうか優先順位の最下位に転落する。
だって、目の前で子供が泣き叫んでいたり、プロジェクトが火をふいていたら、それはそれは瞬時に火消しに駆けずり回ざるをえないでしょう。
でも、人って他人なんですよね。自分の子供でも。自分の一部じゃない。死ぬ時は一緒に死ねないし(勘違いして無理心中しちゃったりする人もいますが)、苦しんでいる時も一緒に同じ苦しみを感じることはできない。
母親というアイデンティティーも会社での地位も自分の存在を永遠に保証してくれるものではない。大きな傘を差して沢山の人を養えることだけが生きがいだったら、それがなくなったとき、なんで自分傘さして突っ立ってるんだろう?と思わないだろうか?去っていく人・子供を追いかけてまで傘をさしてあげようとする人も少なくない。去る人に対して怒りを覚える人も。
自分のキャパシティーって無限であり、有限。
どこにどう配分するのかは自由。
でも、出来れば今自分はどんな風に配分してるか意識出来てる、数年後に今の状態が変わったときに「あれは何だったんだ、あんなにやってあげたのに」って思わなくて・喪失感を感じなくてすむのではないか。
ああ、今私は
自分がやりたい事を犠牲にして
家族との関わりを犠牲にして
仕事を犠牲にして
ーをやろうとしているんだな、と。
このバランスが割りと明確に感じることが出来ていたら、必要な時にその配分率をフレキシブルに変化させて、自分のアイデンティティー、自分の生き方を、より自分が自然体で作っていけるのではないか。少なくとも、重点を置く配分の移行をスムースに行なって行くことが、あるいは一つのアイデンティティ-にはまって溺れてしまうのを回避できるのではないか、
と、ある昼下がりのデパートの喫茶店で思ったのでした。