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泣くエネルギー

泣くエネルギー_d0065558_232162.jpg買って欲しいものを買ってあげなかったら、帰り道、自転車の後部座席で子供の泣き叫び続けられた。泣き声が通り全体に響き渡って、この住宅街に住んでいる人みんなに聞こえているんだろうなぁ、うるさいだろうなぁ、申し訳ない、と思いながら、自転車をこぎ続けた。

もうそろそろ泣き止んで、と言ってもよかったのだけど
泣き声のエネルギーが頭の後ろにぐおんぐおんぶつかってきて、これを止めさせるのって、罪ではないかと思って、泣き叫ぶままにしていた。

こんなに凄い悲しみのエネルギーを発散する 泣く という行為を止めさせたら、そのエネルギーの・悲しみの行き場がなくなってしまう。無理に我慢して泣き止んだら・泣きやませたら、心の底にどんどんその悲しみが溜まってしまう。

音楽療法士としてクライアントと接している時は、絶対に泣くことは止めないし、むしろ泣きたくても心の何かが邪魔をして泣けない状態の人が、泣ける場所を提供することに結果的になったりもしている。でも、多くの場合 大人のクライアントは声を上げて泣き叫ぶ、という事はしない。

だから、今日 子供の泣き声を聞いて、改めて悲しみとか怒りが持つエネルギーの大きさを再認識させられた。肌で感じた。目に見ることが出来た。こんなにも凄いエネルギーを、人前で泣くべきじゃない、とか悲しい気持ちにならないほうがいい、など理性の理屈で日々押し込め、感じないようにしたら、心のバランスが崩れていくのは、それはそれは当たり前の成り行きだろう、と思ったのでした。
by totoatsuko | 2007-11-11 23:02 | Comments(5)
Commented by mino at 2007-11-25 04:48 x
①よしえです、ご無沙汰しております。
(長くなってしまったようなので、分割して送信します。)
いつも興味深く拝見させていただいています。
泣くエネルギー、たしかにそばで感じるとものすごいものがありますね。特に子どものそのエネルギーは。
totoatsukoさんのアプローチ、いつも芯がしっかりあって、それはご自身の信念に深く根ざしたもので、とてもありがたく学ばせていただいています。
Commented by mino at 2007-11-25 04:49 x

泣くエネルギーについて私が感じたのは、ときにその泣きをとめること、そのタイミングが大切なこともあるのではないかということです。「泣き」の生物学的構造に詳しくはないのですが、一度泣き始めたとき、もはや自分の意志とは無関係に「泣き」という行為だけが一人歩きしてしまって、「息をするのも苦しくてもう泣き止みたいのに、自分の力で止められない」というような状況が起こらないとも限らないんじゃないかなぁとふと思ったので。実際に、自分の力で泣き止めずに泣き続けていると、過呼吸に陥ってしまうこともあるそうです。医療関係者から聞いた話で、自分が実際に勉強して得た知識ではないのですが。そんなとき、泣きを止めても、それ以外の方法で感情のエネルギーを受け止める方法がきっとあるような気がしています。今すぐ具体的に浮かばないのですが。もちろん、泣きのエネルギーは強烈ですし、それを放出させることが心の健康にとって大切だという基本的なアイディアにはとても賛成なのですが。
Commented by mino at 2007-11-25 04:49 x

もうひとつは、ある人が泣き始めたからといって、それが即、その人が泣くことに対して、心のエネルギーを泣きという形で放出することに対して、準備万端だということにはならないんじゃないかという思いが浮かんできました。クライアントでも、その人が行動として表すもの、言葉にして表すものが、すなわちその人の心の状態、readinessなんかと即一致するというわけではないと思うので、タイミングやそのときどきの状況を見分けることってやっぱり大切なんだなぁとふと思わされました。
泣きのエネルギーを放出しているとき、そのエネルギーを受け止めてくれる存在というのはどういうふうに働くのかなぁとふと根本に返って考えています。カウンセラーとして泣く場所を提供するとき、ただspaceというだけでなくて、そこにカウンセラーがいて、それによってそのspaceが泣いても安全な場所になるのですよね…きっと。
totoatsukoさんのブログを読んでいると、よくいろいろなことを考えさせられます。ありがとうございます
Commented by totoatsuko at 2007-11-25 21:59
よしえさん、久しぶりです。読後の印象、共有してくださって有難うございます。おっしゃるとおり、専門家として「泣く」行為・広義に言えば感情を放出する行為に関わる場合、それなりの覚悟と自分が行う専門家としての介入方法・時期に対する理由がきちんと自覚できている必要があると思います。
泣ける場を提供できたらいい、なんてナンセンス。それだったら、親しい友人だって出来る。クライアントが必要な時期に必要な分だけ自分の感情に溺れはしないが、溺れる恐怖感なく感情にどっぷりつかり、自分が押し殺していた感情(悲しみだったり怒りだったり、喜びだったりー喜びを感じることに罪悪感を感じる人もいるのです)を必要なだけ体と心と魂で感じるサポートをすることにより、エネルギーのバランスがとれていくのではないでしょうか。それは、1回限りではなく、少しづつ何度も繰り返す必要がある人だっています。
Commented by totoatsuko at 2007-11-25 22:11
②でご指摘のように、実際に「泣く」という行為以外で悲しみを受け止める方法は沢山あると思います。何も泣かなくたって、悲しみはプロセスできます。音楽心理療法だと、それを音にしたり、声にしたり、イメージにしてみたり、色にしてみたり。もちろん言葉を使って会話の中で感情を噛み砕く場合もあるし、詩や歌詞にしていく方法もある。自分の中に叫び声が存在することすら自覚していない人でも、上記のような方法を使うことで、必要ならば自分の感情に出会い、理解し、受け入れるプロセスが起こります。
そして、あえてそのプロセスを専門家と行い専門家がプロセスの証人として寄り添えば、一人では決して発見しきれない・たどり着けない変化を体験することが出来る。また、それだけの付加価を提供できるだけの力量をカウンセラーやセラピストと自負する人は持っていなくてはならないと思います。
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音楽療法士(GIM)のつれづれ


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