わたし、この歌 覚えてる!
いつも、庭に面している光の入る窓を背中にして、右肩を下にベットに横たわっている。
その体勢からは、部屋の入り口がよく見える。
誰もいないがらんどうの部屋をみわたせる。
どんな思いで横たわっているのか、、、
私には想像する事しか出来ない。
ある日、メラニーに家族の事を尋ねたら、
”家族?何も思い出せないわ。彼らが私を洗脳してしまったから。
何も思い出せない。
ほんとうに何も思い出せない。”
と力よわく言った。
洗脳?随分つよい言葉だ。
彼らって誰?スタッフ?家族?
信用できない人に囲まれて過ごす事ほど、辛い事はないだろう。
でも、彼女の主観的な経験は、"洗脳”という言葉がしっくりくる、という事は事実なのだ。
”そんなことないじゃない、看護士のボブは優しいし、アシスタントのキャッシーは、ちょくちょく様子見に来てくれて、大事にされてると思うわよ”
なんて言葉かけは、家族や友人が言いがちだけれど、
セラピストが言うのは、まったく意味の無いこと・仮に、それが本人以外の大勢にとって真実であるにしてもだ。
セラピストは、いかに本人が感じていることを汲み取り、
本人が立っている状況に一緒に寄り添えるか、というのが大事なのだ。
私は、メラニーに提案する。
”ねぇ、今歌を聞く気分?もしかしたら、歌だったら、思い出せるかも?”
”思い出せたら本当にうれしいけど、そんなことありえない。ありえないわ。”
”そっか。でも、トライする価値はあると思わない?これから私が歌う歌、ちょっときいてみて。”
メラニーの年齢を考えて、彼女が若い頃よくきいたであろう、ケ セラ セラ を選び、ギターを弾きながら歌う。
とたんに、メラニーの頬が高揚した。
歌のメロディーを覚えていたからだ。
さびの ケ セラ セラ のところは、私と一緒に歌詞を口ずさむ。
メラニーの顔から、満面の笑みがほころぶ。
少しは動かせる左腕が音楽にあわせて動く、まるで踊っているように。
私たちは、何度も、何度も繰り返し歌った。
歌いおわったところで、メラニーが言う。
”私、おぼえてた、歌詞を!わたし、覚えてた。なんて素敵な事なのかしら。
覚えてる、覚えてる。”
歌う前と比べて、明らかに輝いている瞳、頬のつや、体の発するエネルギー、彼女の喜びが伝わってくる。
私たちは、その後もう2曲歌ったのだけど、
サビの歌詞は歌えたし、小さなシェーカーを振ることによって、音楽のテンポも彼女が決めた。
メラニーが私の手を握って、目を見つめて言う。
”わたし、今泣きそう。ああ、なんて音楽ってすてきなの。あなたも、本当にいい人ね。”
”泣いてもいいよ。私はぜんぜん構わない。だって、人間だもの、感情があってあたりまえ。”
音楽が、私との関係が、素直に、恐れず、”泣きたい気持ち”にさせた。
そして、私と音楽との空間と時間のなかで"泣く”ことは、こころの浄化作用があったのかもしれない。
そろそろ、行かないと。
又来週ね、といった時には、洗脳されたと思い込んで、薄暗い部屋で気落ちしているメラニーは、もういなかった。