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individuation process

Jagapockleさんのコメントを読んで、
自分と、人とのかかわりの中で、刻々と変化してきて、刻々と変化していっている自分自身のマクロビオティックとの関わりを思いながら、感じたこと。

日本でマクロビオティックを自分の中に取り入れて生きていくのって、ほんとうに大変なことだと実感しています。アメリカだとベジタリアンと肉食のカップルがいて、違うものを食べて仲良くしてるし、何かの集まりでも、違う食のスタイルの人が、なんの障害もなく人間関係を築いていっている。人と違うこと、がそもそも当たり前な文化と、人と同じであることが当たり前な文化、という違いからなのでしょうか。

マクロビオティックに限らず、人と違う自分であることは、ものすごい攻撃や批判やいじめにあいます、日本では。いままで自分にとって大事な人からも。とても辛くて大変なプロセスだと思います。


個人レベルから社会レベルまで全ての段階で、
人と違うこと、やDiversityを内包する内的強さをはぐくんできていない歴史を持つ日本社会で、
マクロビオティックを個人のライフスタイルに取り入れていく、というのは相当なチャレンジだと思います。

しかし、これまで人の目や常識、など外の声や空気に知らないうちに取り込まれていた自分が、
マクロビオティックに出会い、それを通して自分の心や体の内なる声により耳を傾けようとしていくプロセスは、ユングのいうindividuation process -自己実現のプロセス を喚起することになるのではないか、と最近思っています。

individuationは、セラピストというプロフェッショナルのサポートをもってしてサイコセラピーのプロセスの中で展開していくことができる、個人でやるには不可能な心のプロセスです。自分は誰なのか、自分探しのプロセス。よく間違われるのですが、individuation processが進み、自分らしくあることを認めることができるようになる、ということは、とても自己中心的になる、ということではないのです。自分をよりよく知ることで、新しい周りとのかかわり方も開けてくる。。。と書きつつ、なんだか違う、それだけではない、と感じていますが、それがこの投稿のメインテーマではないので、ここら辺で切り上げて・・・



自分の心や体に耳を傾け、地球とどうかかわって生きて生きたいか、という視点に重点をおいたら、すぐさま家族や友達や社会との調和を乱す、その上、あなたの態度は人の気分を害する、とまで言われてしまうことも多いと思いいます。

人と違うことは、人を批判することでも、否定することでもないのに、
今まで自分とある一定の価値観が違う、という人と真剣に向かい合ったり、
異質なものをいかに内包するか、という取り扱い方を一般的には家族も学校も社会もモデルを示してはいず、(示されるのは、どう排除するか、潰すか、ということでしょうか)
異質なものに侵略されるのか、自分が染められてしまうのか、不安が恐怖になり、出来るだけ早くつまはじきにしよう、という力学が働きがちです、この「人と同じ」ことが大事な日本は。

マクロビオティックをやる、ということはただ食事のスタイルを変える、ということではなくて、
体の状態にセンシティブになり、体や心の声を今まで以上に聞こうとし、
今までの自分の生き方、自分の前後のジェネレーション、自分とつながっている先祖のことまで
あらゆることに思考、思想が広がっていきます。思いをめぐらせていると、地球から宇宙の法則までつながっていきます。自分を批判していくる人々も、また、自分の闇の部分をrepresentしているわけですから、切り離すものでも、否定するものでもありません。

人と違うことがこわい、それはそれで、その人にとって真実であり、
そういう恐怖は、マクロビオティックをやっている、いない、にかかわらず、
どの人の心にも必ず存在するものです。

だから、目の前で自分、あるいは”自分達”と違うポリシーをもって生きている人にであったら、
自動的に不安感が無意識のうちに自分の心を覆い、
無意識のうちに、”違う人”を”攻撃”してしまい、
そうすることによって、自分の正当性を示そうとする心のパターンがあります。

本当に残念だなぁ、と思います。
その”違う”とみなされた人は、目の前の”自分と違う”(けど、その社会ではマジョリティー)人を否定しようとも、不安に陥れようともしていなくて、ただ、自分の信じている生き方をしているだけで、たまたまそれがマジョリティーの形とは違っていただけ、というだけなのに。。。

マクロビオティックの考え方が自分にしっくりして、それを取り入れて生きていこうとおもったら、人と違うことで向かい合わなくてはならない、自分自身の「人と違うこと」に対する恐怖を乗り切らなくてはつづきません。恐怖を感じ、でも自分の信念も感じ、そのつらいつらい長い葛藤のなかから、知らなかった新しい自分が生まれてきます。

マクロビオティックをやること、あるいは、自分の信念を持ってそれを生き方に反映していくこと、それは、本当にこの日本では危険な行為だと思います。日本以外でやるのは全く問題ない、というか、いちいち話題すらならないissueだとおもいますが。 だって、いろーーんな食の生き方のスタイルの人がいるのが、当たり前だし、同じがボトムライン、という日本を含むアジアの国々でも、外国人としてその国の人と違うことをするのは、例外的に認められるから。

その辛さに耐えられなかったら、周りの攻撃に耐えられず、周りに自分の信念をうまく伝えられなかったり、うまく受け止めてもらえなかったら、自分が納得する生き方を捨てて、周りがいいという、いわゆる”あたりまえ”な生き方、食べ方に戻す人も多いです。でも、一度”あたりまえ”な食べ方に疑問をもってしまったら、周りの攻撃に耐えかねてもとに戻しても、火種はずっと自分の心の中でくすぶっています。その火種は、自分がふたをして見ないようにしているがゆえに、その状態を常に把握できないため、時折爆発したりして、自分自身や、まわりの人に大やけどを負わせてしまいます。

セラピーのプロセスとまさに同じ。自分のみたくないものを見なくてはならないときがある。自分の弱さや汚いところ。今まで見ないようにふたをしてきたもの、表面に色を塗ってはたからはカッコイイものに見せていたもの、それをちゃんと受け止め浄化・消化・昇華していく作業。 それは、ものすごく大変なプロセス。はんぱではない、決して一人では出来ない、中途半端な気持ちでもできないプロセス。でも、本当の自分を知り、どんな側面の自分も認め、矛盾する自分を内包できる強さをはぐくむためには不可欠な作業だと思います。
by totoatsuko | 2010-06-15 10:57 | Comments(1)
Commented by jagapockle at 2010-06-20 12:05 x
コメントを読んでいただいた上にアウトプットありがとうございます。
今回のアウトプットもとてもよーくわかります。
私の心の中のモヤモヤを言葉にしてもらった感じです。

たぶんみんなそれって、お肉ばっかり食べたり、お酒ばっかり飲んだりしているのが悪いと思っているから、いざそれを止めようと、その道を外れようとする人がいると、足を引っ張ろうとするのではないかと思います。(何かそれって中学とか高校のグループで、グループを外れると言った時のそれみたいな感じ?)

ホントアメリカのように、バックグラウンドも、宗教も、食べるものが違っても、それぞれ「別人格」という考え方を持って、友達でも家族でも接することができたら楽なのになーと思います。

日本人として生まれた以上、それは一生着いて回るものなのでしょうけど。
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